すべてが F になる
フジテレビ
火曜 21:00~
ドラマが原作に対して取るべきスタンスを選ぶのは、あらためて難しいと思う。もちろん、スタンスを取りやすいものもあれば、はなから困難が予想されるものもある。後者については、そのチャレンジを評価することもできるけれど、すべては結果だ。できないことに対して、見切り発車してしまったことへの非難は免れない。
テレビドラマでは数字という厳しいものが付いてまわるが、これは必ずしも作品の価値を決めるものではない。リアルタイムに数字が取れなくても、なぜか記憶に残り、再放送でブームになったり、DVD の貸し出しで記録を作ったりする作品もある。つまりは魅力が伝わるまで時間がかかるものもある、ということだ。もとより魅力がなければ、どうしようもないが。
原作があるもののドラマ化は、原作の魅力(があるものとして)をどう生かすのか、それがドラマそのものの魅力となり得るのか、なり得ないのか、というところで明確な判断を迫られる。ドラマ化するということは生身の俳優を使うということだから、一般には、人間の心理的な部分を拡大できるものの方が成功しやすい。それは細密に書き込まれた文学作品としての原作を生かすし、俳優もまた表現力の見せどころがあるからだ。
「すべてが F になる」は、そのタイトルの近似性からも同期のドラマ「N のために」と比較されている模様だ。条件が異なる以上、視聴率対決など意味がないし、総合的な評価としては一長一短というのが公平だと思われる。が、いわゆる「批評」の俎上では、「F」の方が分が悪い。
それは「F」が大部なヒット作で、それを構成する要素からしても、すでにドラマが補えるところがなく、その中で完結した世界が出来上がっている、ということがあるだろう。ドラマが補えるものと言うと、まずヴィジュアルだが、大部のものは読者の中ですでにヴィジュアル的なイメージが出来上がっていることが多く、どんなキャスティングでも文句が出る。
そしてエンタテインメント性が強く、登場人物の内面描写に欠けるように思われる原作であっても、読者というものは大部の小説を読むうち、自身の内面を投影するかたちで登場人物の内面に奥行きを見い出すものだ。そして大部の原作であればあるほど、時間的・量的に制限のかかる映像作品は、その設定やプロットをなぞるのに精一杯という結果となり、そんな表層的な作品の読者たちからすら、「表層的」だと批判されるはめになる。
実際のところは、この「F」は通常ではあり得ない設定で、ホラーなのかミステリーなのか、はたまた SF なのかという雰囲気の中、その未来感覚的なおどろおどろしさは見慣れぬものとしてなかなか目が離せない。原作の読者にはさぞかし不満があろうが、テレビドラマとしては、あってもいいものではないかと感じる。
それで主演ドラマの数字が上がらない女優とされている武井咲だが、それを彼女の人気のなさとか演技力のなさとしてしまうのは、気の毒である。むしろこういう難しいことがわかっているドラマで、企画の破綻を目立たなくするのに、ちょっと現実離れのした可愛らしい彼女をパッチのようにあてがう戦術の結果だ、と思えるのだが。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■