聖母子像(部分) (著者蔵)
文学金魚編集人の石川さんから、プチ・クリスマス特集をしたいのでなにかふさわしい原稿をと依頼されたので、今回はキリスト教美術について書こうと思う。フィリピンのサントはフィリピン諸島一帯で作られたキリスト教の聖像である。二十世紀中頃までは木製だったが、現在も樹脂で作ったサントが盛んに作られ販売されている。フィリピンはアジア唯一のカトリック国であり、人々の信仰心が篤いのである。
キリスト磔刑像残闕(著者蔵)
横三・四×高さ十九・五×厚さ二・九センチ(いずれも最大値) 十九世紀
最初にフィリピンのサントを入手したのは十五年ほど前で、写真のキリスト像がそれだった。元々は磔刑像だが、腕と十字架は失われ胴体だけである。ある品物を骨董屋で買った時に、「産地不明ですが、鶴山さんは妙なものがお好きだからさしあげます」と店主に言われてもらった。確かにこの磔刑像、何か変だった。異様に胴が長く足が短い。しばらくしてフィリピンの聖像(サント)だとわかった。手足の長いヨーロッパ人ではなく、アジア人(フィリピン人)をモデルにしたキリスト像だったのである。骨董屋が言うように僕は妙なものが好きなのかもしれない。この磔刑像をきっかけにサントを集め始めた。数えていないが、多分、四、五十くらいあると思う。
十六世紀はヨーロッパ列強諸国による大航海時代の幕開けで、初期の大航海時代を主導したのはスペインとポルトガルだった。スペイン王カルロス五世の援助を受け、ポルトガル人・マゼランが世界周航の航海に出たのは一五一九年八月十日である。マゼラン艦隊は約三年後の二二年九月六日にスペインに帰還したが、戦艦五艘と乗員二百六十五人で出航した船団は、わずかビクトリア号一艘と乗員十八人にまで減っていた。マゼランもまた、フリピンのマクタン島で二一年四月二十七日に起きた現地住民との戦闘で命を落とした。マゼラン艦隊がフィリピンのサマール島に初めて上陸したのは、二一年三月十七日である。
マゼランの航海は、航海士アントニオ・ピガフェルドによって克明に記録された。マゼランはリマサワ島に上陸すると島の首長・コランブと血盟の儀式を行い、丘の上に十字架を立てた。土地の人たちにはまったく関わりのないところで、フィリピンはスペイン国王の領土だと宣言されたのである。遅れて大航海時代に参入したオランダ、イギリス、フランス、ドイツなどとは異なり、ポルトガルやスペインの目的は、新たな領土(植民地)獲得とキリスト教の布教が一体となったものだった。
マゼランも早速布教を開始した。セブ島の首長・フマボンと血盟関係を結び、イスラームからキリスト教への改宗を勧めた。当時のフィリピンでは多くの首長が鎬を削っていたので、マゼラン艦隊の優れた武力を知ったフマボンは、他の首長との争いが有利になると判断してキリスト教を受け入れたのである。ピガフェルドはセブ島だけで八百人近い人たちがキリスト教に改宗したと書いている。マゼランはキリスト教徒になったフマボンの妻に、サント・ニーニョ像(聖なる子供の意味でおさなごイエスを指す)を贈った。
一五六五年、メキシコ総督府高官のミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島にやってきた。レガスピ隊は武力でセブ島を制圧したが、その際、四十四年前にマゼランがフマボンの妻に贈ったサント・ニーニョ像を発見した。像は新品同様で大切に扱われていた。スペイン人たちはそれはセブ島の人々がキリスト教徒であり続けた証拠で、フィリピンがスペイン領であることの神意の表れだと受け取った。この像はサント・ニーニョ・デ・セブとして今も祀られている。レガスピはセブ島の首長らと平和友好条約を締結した。平和友好条約は名ばかりで、セブ島の主権者はスペイン国王で、住民は国王の臣下であることを規定する植民地条約だった。
サント・ニーニョ像 セブ島またはボホール島(著者蔵)
横十・二×高さ二十四・四×厚さ五・九センチ(いずれも最大値) 十八世紀末から十九世紀前半
サント・ニーニョ像 セブ島(著者蔵)
横十一・七×高さ二九・三×厚さ九・九センチ(いずれも最大値) 十九世紀
サント・ニーニョはフィリピンのキリスト教徒に一番人気の像で、現在も市場にうずたかく積まれて売られているのは、ビニールやプラスチック製のサント・ニーニョ(おさなごキリスト)像である。セブまたはボホール島のサント・ニーニョはヨーロッパ製の像を写したものである。彩色は失われているが(赤いマントは二十世紀に入ってからの着色)、元々は極彩色でロココ様式の像である。セブ島のサント・ニーニョもヨーロッパ人を象った像だが、かなりローカル色が強くなっている。フィリピンでサント・ニーニョは、ヒンドゥー教のガネーシャ神と同様、幸運と繁栄の神とされている。どこか大黒様のようなふっくらとした顔や身体は、富と繁栄を象徴しているのである。
フィリピンでいつサントの制作が始まったのかは、正確にはわかっていない。しかし十六世紀後半には現地の職人によって作られ始めたと推測されている。前述のセブ島を制圧したレガスピは初代植民地総督となり、マニラを首都として一五七〇年代に施政を開始した。市役所を設置し、市会議員を任命して行政活動に携わらせたのである。当初はルソン、セブ、パナイ島が支配地域だったが、軍隊を派遣して現地住民の平定に当たり、またたくまにフィリピン全島をほぼ制圧した。同時にスペインが南米植民地で行っていたのと同様の支配制度、エンコミエンダ(encomienda=スペイン語で「委託されたもの」の意味)も始まった。
エンコミエンダは一定地域内の住民を領有財産とする支配制度である(もちろんそれは土地の支配にもつながる)。支配者には地域内の住民から徴税する権利が与えられるが、同時に住民をキリスト教に改宗させる義務を負う。エンコミエンダには王室、個人、教会の三タイプがあった。布教の中心になったのは宣教師だが、本国スペインや南米からやって来た宣教師は、植民地政府から経済的基盤を与えられた上で布教に励むことができたのである。
【参考図版】象牙製聖人像 高さ十一センチ 東京国立博物館蔵(長崎奉行所宗門蔵保管品)
東京国立博物館には、江戸幕府の長崎奉行所宗門蔵保管のキリシタン関係遺品が数多く収蔵されている。衆知のように江戸期を通じてキリスト教は御禁制であり、長崎を中心とした隠れキリシタンを摘発するたびに、彼らが所蔵していた十字架やロザリオ、メダイなどを長崎奉行所が没収していたのである。明治になって御禁制が解かれ、長崎奉行所宗門蔵保管の遺品が帝国博物館(現・東博)に保存されることになった。その中に象牙製の聖人像が数点ある。これらは恐らく、フィリピンかマカオあたりで中国人職人によって作られたのではないかと推測される。ヨーロッパには象牙で聖像を作る伝統がないからである。
写真の象牙製聖人像はその一つなのだが、この像、なにを表現しているのかわからない。幼子を抱いているので聖母子像と言いたいところだが、腰に荒縄を巻き、裸足であるところを見ると、抱いている人はフランシスコ会の修道士である。ヨーロッパでは考えられない様式のイコンである。キリスト教の教義をほとんど知らない職人が作ったので、このような奇妙な聖像が出来上がったのではなかろうか。異文化と異文化が衝突する時には、しばしばこのような誤解や混乱が生じる。
よく知られていることだが、日本で最初にキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアから日本を目指した。ザビエルが日本の地を踏んだのは一五四九年八月十五日である。ザビエル来航後、次々に宣教師が日本に渡来するが、十六世紀後半になるとその拠点はポルトガル領マカオ(中国)やスペイン領フィリピン(ルソン)になる。イエズス会士ばかりでなく、フランシスコ会、ドミニコ会の宣教師らも来航するようになった。桃山時代から江戸時代初期に描かれた『南蛮屏風』には彼らの姿が数多く描かれている。またキリシタン大名として有名な高山右近が、江戸幕府からの国外追放の命を受けて移住したのはフィリピンのルソンだった。右近は一種の聖者として、時のフィリピン総督ファン・デ・シルバから熱烈な歓迎を受けた。
アジア地域での布教には、当初、ヨーロッパから運ばれた十字架や聖像が使われたものと思われる。実際、東博所蔵のキリシタン関係遺品の多くがヨーロッパ製である。しかしそれと同時に、中国、フィリピン、日本製のイコンも相当数存在している。アジア地域で布教したのはカトリック系の宣教師である。偶像(イコン)礼拝を禁じるプロテスタントとは異なり、カトリックでは神の象徴としてイコンに祈りを捧げる。また仏教徒やヒンディ教徒は聖像に祈りを捧げるのが普通だった。そのため聖像を大切にするアジア地域の布教では、キリスト教のイコンが大いに活用された。ヨーロッパからイコンを運んで来るのではとても間に合わず、かなり早い時期からイコンの現地生産が始まっていたようだ。
聖母子像 フィリピンまたはスペイン(著者蔵)
横八・九×高さ十二・三×厚さ七・二(台座)センチ(いずれも最大値) 十八世紀末から十九世紀前半
聖母子像 フィリピンまたは南米(著者蔵)
横七・四×高さ二二・七×厚さ七・七センチ(いずれも最大値) 十九世紀
最初の聖母子像は十七世紀イタリアで一世を風靡したバロック様式である。フィリピン製で良いと思うが、もしかするとスペイン製かもしれない。二つめの聖母子像は、明らかに南米に伝わった聖母子像である。マリア様のお顔や体型は、どう見てもインディオのお母さんである。聖母子像だと言われなければ、仲のいいインディオ母子を象った像だと思う方も多いかもしれない。ただ生産地ははっきりしない。フィリピン製かもしれないし、南米で作られた像の可能性もある。
十八世紀になると、フィリピンでのサントの制作が盛んになる。理由はわからないが、板やキャンバスに描いた聖像は少なく立像がほとんどである。またヨーロッパの立像は大きなものが多いが、フィリピンの立像はいずれも二十センチから三十センチほどである。サントの受容が高まったのはキリスト教がフィリピンに根づき、多くの熱心な信徒がイコンを求め始めたからだが、巨大な像が必要な教会は少なく、家庭での個人礼拝用が中心だったので小像が数多く作られたようだ。フィリピン製のサントは国内の信徒用ばかりでなく、本国スペインや、スペインの植民地だった南米にも盛んに輸出された。輸出地の好みに合わせて像が作られたので、今では生産地がわからなくなってしまっているものも多いのである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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