古唐津向付 (著者蔵)
お茶の世界には「一楽二萩三唐津」という言い方がある。茶道で使う抹茶碗には楽や荻、唐津が最適だという意味である。楽焼は言うまでもなく、千利休が天正年間に聚楽第の瓦職人だった帰化朝鮮人、長次郎に焼かせたのが始まりである。楽家は現在も千家十職の一つとして基本的には茶道具だけを作っている。荻焼は慶長九年(一六〇四年)に長州藩藩主・毛利輝元の命により、朝鮮人陶工、李勺光、李敬兄弟が始めた藩の御用窯である。李敬の家は現在も坂高麗左衛門窯として続いている。様々な焼き物を作るようになったが、萩焼も基本的には茶道具中心である。しかし唐津焼は異なる。楽家や坂家のような桃山時代から続く中心的窯元が存在しないのはもちろん、実態としても唐津は茶道具窯ではないのである。
「一楽二萩三唐津」という言い方がいつ頃から始まったのかは調べていないが、早くても幕末以降ではないかと思う。茶道で使うお茶碗は、楽焼を別格としてずっと唐物(朝鮮物を含む)を珍重してきた。茶道では国産茶碗を国焼と呼ぶが、唐物よりも格下だと見なされてきたのである。それが幕末になると変わり始める。幕末には相撲番付に倣った様々な番付(見立番付)が作られた。芝居、名所、美人など種類豊富だが、茶道具番付もある。その中に唐津を含む国焼が現れ始める。実際、唐津は生産場所がわかっていたので、窯址を掘り返して傷の少ない作品を入手する者も出始めた。骨董業界ではそのような作品を「掘唐津」と呼ぶ。唐津の魅力は幕末に再発見され、戦後の大唐津ブームに繋がっていったのである。
しかし唐津は様々な生活食器を作り続けた窯であり、茶道具はそのほんの一部である。それは現存する唐津焼の九十九パーセントが発掘物や呼継であることからもわかるだろう。唐津のほとんどは割れれば捨てられてしまう安価な陶器だったのである。唐津の魅力が再発見されてから、発掘した飯茶碗などを抹茶碗に〝見立て〟て使うことが多い。
桃山時代の茶道界(陶芸界)を俯瞰すれば、茶道具窯は明らかに美濃窯(志野・織部窯)である。確かに唐津でも茶陶は作られているが、それは当時の茶道熱が、都から遠く離れた九州の唐津地方にまで押し寄せたからだと言っていいのではないかと思う。もちろん現存する古唐津の、どれが茶道具として作られたのかを判別するのは難しい。しかし検討してゆけば、ある程度は茶道具の意図で制作された唐津を特定できるのではないかと思う。
【参考図版】奥高麗茶碗 是閑唐津 銘三宝(重要文化財) 和泉市久保惣記念美術館蔵
古唐津には「奥高麗」と呼ばれる茶碗がある。奥高麗は高麗(朝鮮)の奥地で作られたという意味であり、高価で希少性の高かった高麗茶碗の代用品として制作された。奥高麗を定義すると、室町時代後期に作られた茶碗で、手から手へと大事に受け継がれた伝世品である。そのため高台(茶碗の底)部分が長年の使用によって真っ黒に変色している。唐津は高温で焼き締められるので味(使用によって器体上に現れる染みなど)が付きにくい。ここまで高台の色が変わった古唐津は少なく、奥高麗が古い時代の作品であることを示している。確実に伝世品であることが奥高麗最大の特徴だとも言える。
また奥高麗茶碗の残存数は、民間にある物をかき集めてもせいぜい二百点くらいだろう。抹茶碗しか存在せず、すべて素直な碗なりの形で統一されている。それは奥高麗が、室町幕府の貴人(茶人)の命で一定期間内に集中して注文生産されたことを示唆している。もちろん作行きから言って、九州の唐津地方で朝鮮人陶工たちによって作られたのは間違いない。しかし奥高麗が、桃山時代に開窯したいわゆる古唐津に直結しているかと言えば、そうとは言えないと思うのである。
前回『第025回 さて、古唐津』で書いたが、唐津は窯によって使用する土が大きく異なる。しかし奥高麗は高台の土を見ても、まったく窯を特定できない。少なくとも桃山以降の唐津窯で当てはまる土はない。形が統一されていること、残存数が少ないこと、注文生産で貴人・茶人が所蔵したことから言って、奥高麗を焼いた窯は小規模だったのではないかと推測される。注文主である室町幕府高官の没落とともにその火はいったん消えて、桃山末に渡来した朝鮮人陶工によって新たに古唐津窯が開窯されたのではなかろうか。奥高麗と桃山唐津ではその作行きがまったくと言っていいほど異なるのである。奥高麗と桃山開窯の古唐津は、同じ唐津でも系統が異なる焼物だと考えた方が良いと思う。
古唐津鉄釉茶碗(銘・昭和 飯胴甕窯) (著者蔵)
口径十二×高さ六・九センチ(いずれも最大値)
同 見込と高台
桃山開窯の古唐津では最古の窯である飯胴甕の作品である。呼継茶碗だが灰釉の上から鉄釉を掛け、それが還元炎で赤く発色している。初期唐津窯に多い釉薬の二度掛け作品である。ただ奥高麗とは大きく異なる荒々しい作りである。変化に富んだ作品だが、このような茶碗が茶陶(抹茶碗)として作られたとは言えないだろう。
室町から江戸初期にかけて、茶道は武士が行うものだった。そのため大振りの茶碗を使うことが多かった。奥高麗も同様で、約十五センチほどの口径である。写真紹介した古唐津は口径十二センチで飯茶碗のサイズである。抹茶に使うとしても、江戸中期以降に女性が茶道をたしなむようになってからの平均的サイズである。古唐津では圧倒的に十二センチほどの口径の、飯茶碗サイズの茶碗が多いのである。
よく知られているように、日本に大量の朝鮮人陶工が渡来したのは桃山時代末期である。天下統一を果たした豊臣秀吉は、今度は明国(中国)を平定するという野望を抱いて朝鮮に出兵した。文禄・慶長の役で、この戦争は無惨な敗北に終わったが、朝鮮に出兵した日本の武将たちが大量の朝鮮人陶工を連れ帰った。なんらかの形で秀吉の意向が働いたものと思われる。
茶道の大成者である千利休は既に秀吉の命で自刃しており、この時代、茶道界のトップに立っていたのは利休高弟の古田織部である。美濃の小大名だった織部は朝鮮には出兵せず、唐津にほど近い、波戸岬の丘陵に築かれた朝鮮出兵のための本陣、名護屋城で秀吉に随従していた。朝鮮人陶工を連れ帰って日本で焼物と作らせるという施策は、戦地の悲惨を知らなかった秀吉と織部の夢の名残かもしれない。ただ実際に朝鮮人陶工たちを抱えた大名たちの目的は、必ずしも茶道具を作ることにはなく、焼物先進国である朝鮮人を使った殖産にあったのではなかろうか。特に唐津はその気配が強い。
織部が茶道界の頂点に立って活躍したのは、利休自刃の天正十九年(一五九一年)から、徳川家から謀反の嫌疑をかけられ自刃して果てる慶長二十年(一六一五年)までの二十五年ほどである。この間、織部は武将たちに茶道を指南するかたわら、精力的に茶碗や水指、懐石用の食器などの制作を指導した。織部が直接的に作陶を指導したと思われるのは領地内にあった美濃窯である。天正から慶長期の美濃窯はほとんど茶陶しか焼いていない。特に織部焼の器形を歪ませ、斬新な模様を施す意匠は織部の強い個性が投影された焼物である。それまでの日本になかったのはもちろん、世界中を見渡してもこのような焼物を発案した者は皆無である。
織部の作陶指導は伊賀窯や朝鮮にまで及んでいる。型紙(どのような陶器を作るのか、紙で型を作って指示する設計書)を使って発注したのだろう、明らかに織部の好みが反映された御所丸と呼ばれる高麗(朝鮮)茶碗が残っている。織部はもちろん、秀吉とともに滞在した九州でも唐津窯に好みの陶器を発注している。
【参考図版】絵唐津沓茶碗 和泉市久保惣記念美術館蔵
絵唐津沓茶碗は織部の指導で作られている。しかし全盛期の織部焼の特徴である、器体の歪みと斬新な模様が施された古唐津は意外なほど少ない。朝鮮にまで発注して好みの茶碗を作らせているので、唐津が都から離れているため指導が行き届かなかったのだとは言えないように思う。織部は唐津焼で抹茶碗を作ることに、あまり魅力を感じていなかったのではあるまいか。織部様式の古唐津は茶碗よりも花入れや水指などに多い。最も数多く焼かれた織部様式の古唐津は向付用の皿だろう。
古唐向付(阿房谷窯) 見込と高台 (著者蔵)
口径十三・八×高さ四・九センチ、口径十三・五×高さ四・八センチ(いずれも最大値)
古唐盃台(内田皿屋窯) (著者蔵)
口径十四・三×高さ五・八センチ、口径十三・五×高さ四・八センチ(いずれも最大値)
見込と高台
全盛期の織部焼に比べればおとなしいが、器形を歪ませるその手法は織部好みである。茶陶として織部様式の向付などが盛んに発注されたことは、その違例の数からもうかがい知ることができる。明らかに室町・桃山時代から伝世した古唐津碗は驚くほど少ないが、水指、花入れ、壺、向付で伝世した古唐津はかなりの数にのぼる。特に向付は日本では食器は五客を一揃いとするので最も伝世の数が多いだろう。古唐津というと抹茶碗のイメージが強いが、茶人たちが唐津に茶道具を発注する場合は、茶碗以外の茶陶が多かったのではないだろうか。
こういった推測はもちろんマニアックなものである。ただ幕府の力が強大で、一種の恐怖政治を敷いていた江戸初期に反逆者として自刃した古田織部の記憶は歴史から抹消されている。織部が主導した美濃窯は、昭和五年(一九三〇年)に荒川豊蔵が窯址を発見するまでその場所さえ忘れ去られていたのである。織部失脚とほぼ同時に茶陶窯としての歴史を終えたからである。また『第003回 図録を読む』で書いたように、織部失脚後に京都で織部陶を商う焼物商人たちが、織部様式の陶器を大量に廃棄した気配がある。茶道で織部が果たした役割に脚光が当たるのは戦後になってからのことだ。古唐津の中の茶陶を整理して考えてみることは、日本の茶道史はもちろん、古田織部研究にも示唆を与えてくれるのではないかと思う。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■