マリア像(頭部) (著者蔵)
骨董業界ならではの興醒めなことを書くと、日本で流通しているキリスト教の立像イコンは圧倒的にフィリピン製が多い。ただフィリピン製だとわかっていても、スペイン製や隠れキリシタンモノという触れ込みで販売する骨董屋がけっこういる。当然だが、欧米ではキリスト教美術が高値で取り引きされている。百年世紀を遡るごとに一桁値段が変わるような世界である。フィリピンのサントは十九世紀のものがほとんどだが、十六世紀から十七世紀のロココ、バロック様式を写しているものも多いので、スペイン製で通せば大化けするのである。
隠れキリシタンモノは伝来が問題になる。確かに隠れキリシタンモノにフィリピン製イコンが紛れ込んでいる可能性はあるが、特別なものは少ない。同様のものは市場にいくらでもあるわけで、出元がはっきりしていなければ隠れキリシタン旧蔵品とは言えない。フィリピンのサントはあまりよく知られていないので、骨董好きの茫漠としたロマンを煽る形で隠れキリシタンモノにされているわけだ。さらに骨董屋がフィリピン製であることを隠したがる理由に、はっきり言えば日本人のフィリピン蔑視がある。戦前を知る高齢者に多いが、フィリピンの骨董だと知ると、「じゃあいらない」と言う人が現実に存在するのである。
フィリピンは現在でも経済的苦境に喘ぎ、定期的に政治的混乱が起こるいわゆる発展途上国である。その歴史は苦難の連続である。フィリピンでは一五六五年のレガスピ隊の到着から一八九八年のフィリピン共和国(第一共和制)の成立まで、三百三十三年に渡るスペインの支配(植民地化)が続いた。しかしフィリピン人はスペインの支配をそれほど憎んでいないようだ。それはフィリピンの国名が、フェリペ二世王の名にちなんだものであることからもうかがい知れる。フィリピンはフェリペ王に制圧された土地(民)という意味である。
事実としてスペインによる植民地化(フィリピンエリアの特定)まで、この地域に統一国家は存在しなかった。また中国の史書にフィリピンエリアの情報が僅かに記載されているだけで、この地域に高度な文明が存在していたという考古学資料もほとんど発見されていない。高温多湿のフィリピンでは、かつて存在していたとしても文書資料などは跡形もなく消え去ってしまったのである。フィリピンの歴史は実質的にスペインの統治から始まる。フィリピン人は、スペイン人による統治を歴史の始まりと考えざるを得ないところがある。
またスペイン人にとって、フィリピンが統治しやすい土地だったのも確かなようだ。スペイン人のドミニコ会修道士、バルトロメ・デ・ラス・カサスは『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(一五五二年発表)を書き、南米ではスペイン人によって、少なくとも千五百万人以上のインディオが虐殺されたと弾劾している。それだけスペイン統治への反抗が激しかったのである。しかしフィリピンでは南米のような大虐殺は起こっていない。植民地化は比較的スムーズに進んだ。
十九世紀末になると、ようやくフィリピン人の民族意識が高まり独立運動が盛んになる。最も有名な革命家はホセ・リサールである。インドのガンジーなどと同様に彼も宗主国式の教育を受け、スペインに留学することで祖国独立の決意を固めた。医者であり文学的資質も高かったリサールは思想家タイプの革命家であり、必ずしも暴力革命を支持していなかった。しかし植民地政府との戦闘は、もはや避けられないところまで情勢は緊迫していた。
一八九六年にアンドレス・ボニファシオに率いられた秘密結社カティプナンが独立闘争を開始すると、リサールはその関与を疑われ(実際にはリサールは独立闘争開始は時期尚早だとボニファシオに忠告していた)、簡単な軍事裁判を経て銃殺刑に処せられてしまった。ボニファシオも捉えられて処刑され、闘争はエミリオ・アギナルドに引き継がれた。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、欧米列強のアジアの植民地化が凄まじい勢いで進んだ。インドからマレーシア、ベトナムにかけての東南アジアエリアだけでなく、中国や朝鮮にまで列強の支配が及び始めた。決定打は日清戦争である。日清戦争によって中国の政治・経済は混乱し、それに乗じて欧米列強と日本が中国・朝鮮を植民地化し始めたのである。
新興国で巨大な島国でもあるアメリカは、欧米列強の中では領土的野心の薄い国だった。モンロー主義を掲げ、ヨーロッパ諸国の紛争、及び南北アメリカの植民地紛争への非介入を表明していた。ただしアメリカは、その建国理念である自由・平等に照らし合わせ、独立の意志のある旧スペイン領に干渉することを許容した。この例外規定に基づいてアメリカはキューバ独立戦争に介入し、キューバ併合の一歩手前まで支配した。ハワイ、サモアを併合し、スペインと独立戦争を戦うフィリピンに介入したのである。名目はアギナルド軍支援だが、フィリピンの植民地化(領有)の意志がなかったとは言えない。アジア植民地化の流れは、アメリカですら参入の野望を抱くほど凄まじいものだったのである。
アメリカはあっさりとスペイン軍に勝利し、一八九八年六月十二日にアギナルドはフィリピンの独立を宣言した。しかしアギナルドに実権はなかった。当初口頭ではフィリピン植民地化の意志はないと言っていたアメリカは、占領軍を撤退させなかった。フィリピン総督を置き実質的支配を開始した。
アメリカの統治はフィリピン人から言えば狡猾、帝国主義的意図を秘めたアメリカ側から見れば中途半端だった。将来の独立を仄めかしながら植民地経営を引き伸ばした。議会を作ってフィリピンの国会議員を選出し、一定の行政権などを与えた。またアメリカの統治と同時に膨大な物質文明がフィリピンに流れ込んだ。他の多くの国々と同じように、フィリピン人は便利なアメリカ文明を歓迎した。アメリカがフィリピン人の裕福層(既得権者)を優遇したこともあり、対アメリカ独立運動はまとまりを欠くものになりがちだった。
この膠着状態は、日本軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)と同時に行われた、一九四一年十二月八日のルソン島アメリカ軍基地攻撃によって崩れた。アメリカはまずヨーロッパ戦線でのナチスドイツ壊滅に全力を注ぎ込む方針に転換し、フィリピンから撤退した。終戦までフィリピンは日本に占領されることになったわけだが、すぐに物資不足に悩むようになった日本軍の施政はフィリピン人にとっては耐え難い災禍だった。また日本軍の占領によって、戦後へと続くフィリピン政治はさらなる混乱の火種を残した。
一九一七年のロシア革命前後から、世界中に社会主義思想が拡がった。資本主義国家内の反体制派(抑圧された労働者)はもちろん、宗主国の搾取に喘ぐ植民地にも社会主義思想はまたたく間に受け入れられた。フィリピンも同様で戦前から共産党は存在したが、日本占領中に共産主義系の抗日人民軍フクバラハップ(通称フク団)が結成された。しかし一方で、欧米列強からのアジア植民地解放を大義とする、日本の大東亜共栄圏思想に賛同する者もいた。アメリカの敵は味方という論理も働き、フィリピン人の中から対日協力者も現れた。
言うまでもなく日本の東亜解放は、実際には欧米列強よりもさらに過酷な植民地支配だった。しかしインドネシアのスハルトを始め、充分な軍事・経済力を持たない植民地の独立指導者たちは、現実施策として列強のパワーバランスを利用せざるを得ない面があった。それはフィリピンも同様だった。共産主義抗日ゲリラ、親米派、親日派が入り混じる複雑な政治状況が生まれたのである。
戦後になりアメリカの統治が再開されると、ソビエトとの冷戦下という状況もあり、アメリカは戦時中に抗日ゲリラとして利用したフク団を弾圧し始めた。またフィリピン人によって親日派同胞が厳しく糾弾された。一九四六年七月四日にフィリピンはようやくアメリカから独立するが、第三共和国初代大統領マヌエル・ロハスは就任演説で、「過去四十八年間、フィリピンの友人であり保護者であったアメリカの善意に、われわれの信頼を託すほかない」と演説した。戦後もアメリカの影響力は強大であり、それがマルコス大統領の独裁を生むことになった。マルコスはアメリカ軍基地存続と引き替えに膨大な援助を引き出し、それを私物化したのである。
ざっと戦後までのフィリピン史をおさらいしたが、フィリピンが複数の国家(帝国主義的侵略国家と言っていいかと思う)によって翻弄され続けた国であることがわかるだろう。また政治状況ばかりではない。文化も複雑なのだ。フィリピン人の大半はマレー系だが、少数民族も多い。宗教は八十五パーセントがカトリックだが、イスラーム、プロテスタントなどの多宗教国家である。言語は英語とタガログ語の二重言語だが、その他に八十七もの言語が存在する多言語国家でもある。複雑な民族・宗教・言語が入り混じっているのである。
ただ戦時中に多大な迷惑をかけた日本人の一人としては言いにくいことだが、フィリピン文化の軸は見えにくい。旧宗主国がかつての植民地に対して漠然としたものであれ差別意識を抱くのは世界中で見られる現象だが、それをはねのける力は文化ではないかと思う。政治・経済力があまりなくても、独自の文化を持つ国は尊重され敬愛される。
フィリピンの場合、スペイン人統治以前の歴史は闇の中で、以後は継ぎ接ぎだらけの政治・文化状況が続く。言語一つとってもフィリピンは実質的な世界言語である英語を公用語にし、それを誇りにもしているが、英語は旧支配者の言葉であり、民族独自のタガログ語も公用語に採用せざるを得ないのである。フィリピンの悩みは深い。しかし僕はフィリピンの独自の文化は存在していると思う。
無原罪のお宿り フィリピンまたはスペイン(著者蔵)
横九・八×高さ十八・九×厚さ七・九センチ(いずれも最大値) 十八世紀
聖母マリア像 被昇天聖母 ルソン島パンガシナン州(著者蔵)
横十三・九×高さ三九・五×厚さ十一・四センチ(いずれも最大値) 十九世紀後半
無原罪のお宿りは、聖母マリアの母、アンナを象った像である。聖母マリアは原罪なくして母アンナの胎内に宿ったというカトリックの信条に基づいた造形である。足元にはアンナを雲の上で支える天使が彫られている。円筒形の服を着ているが、これはフェリペ二世時代の宮廷服である。また頭には人間の本物の髪の毛があったはずだが、これは失われている。フィリピン製でいいと思うが、スペイン製の可能性もある。
被昇天聖母は、聖母マリアは神の力で天に昇り、天上において冠を授かるというカソリックの信条に基づく像である。ルソン島のパンガシナン州で数多く作られた像で、フィリピンサントを代表する造形である。名前はほとんどわかっていないが、サントは専門の職人によって作られていた。しかしパンガシナン州の被昇天聖母は、農民信徒によって作られたのではないかと考えられている。極限まで単純化された美しいフォルムである。この二つの像はロケット形で今にも天に飛び出してゆきそうな気配だが、その印象は正しいのである。
フィリピン美術の最も優れた作品は、サントということになるだろうと思う。クリスマス特集ということもあり、今回は聖母子や聖母のサントを紹介したが、フィリピンサントは多岐に渡る。宗主国スペインの古い聖像をそのまま象った作品もあるし、仏教やヒンディ教、あるいはもっと古いフィリピン独自のアニミズム宗教の影響が見られる作品もたくさんある。それは多様な文化が混交するフィリピンそのものである。同じくスペインによってキリスト教化された南米のキリスト教美術品と比較すれば、フィリピンサントの柔軟性は驚くべきものである。本家作品を模倣しながら独自の変化を遂げている。
聖母マリア像 フィリピン(著者蔵)
横六・五×高さ二十三・五×厚さ二・一センチ(いずれも最大値) 十九世紀
頭から光を発する優美な姿の聖母マリア像である。しかしその身体は板のように薄い。これもフィリピンサント独自の聖像だろう。どの民族・国家においても、文化は細かく分析してゆけば継ぎ接ぎだらけである。フィリピンの場合、それがあまりにもはっきりし過ぎているのが問題になる。しかし新たな文化を次々に吸収し続けたフィリピン美術を総体的に捉えれば、そこにフィリピン独自の文化基盤を見出せるはずである。サントはそのための重要な手がかりである。虚心坦懐に見つめれば、非西洋圏のキリスト教美術の、特に立像では、フィリピンサントの造形は驚くほど優れている。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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