蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン
『蓼をゆく』は安井さんの第五句集『密母集』に収録されている。安井さんの句集の中で僕が最も好きな作品集かもしれない。もちろん最初からこの句集の良さがわかっていたわけではない。連載原稿を書くために何度も安井さんの全句集を読み直しているうちに、いい句集だなぁと感じ始めたのだ。安井さんの場合、句集に収録された作品数は第十句集『汝と我』頃から増え始め、第十二句集『四大にあらず』あたりから約千句に達するようになる。後期安井文学の自在な詠みぶりも魅力的だが、初期の凝縮された表現も素晴らしい。
安井さんは『密母集』の表題の由来について、『本書が成立する契機は、わが歳ようやく四十に達した或る日、ふとしたことから葉衣自在菩薩(パルナ・シャバリー)に出会ったことによる。それは、つねに葉の衣をまとった山中の卑なる女(め)にして、だが会うほどに陀羅尼優語、かけがえのないわが密母であった』(『後記』)と書いている。俳人の酒巻英一郎氏によると、安井さんは一九六〇年代後半に刊行された、チベット仏教の紹介本によって〝パルナ・シャバリー〟を知ったらしい。
『佛教聖典選 第七卷 密教経典』(昭和五十年、読売新聞社刋)所收の岩本裕譯「パルナ=シャバリー陀羅尼」および「孔雀明王経」。また一連の翻譯に先立ち、いち早く「祕密集會(グヒヤ・サマージヤ)タントラ」を紐解いた酒井眞典『チベット密教教理の研究』(昭和三十一年、高野山出版社)の金子(注-唐門会の金子弘保氏)による紹介。この卷中の「小便にして芳香、母にして娼妓」なる一章をいくたび講義賜つたことか。
(酒卷英一郎『ねだりの梵-わがお浩司唐門會(ゑ)』『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍79ページ)。
パルナ・シャバリーはヒンドゥー教の影響を受けた女神のようだ。中国では仏教から切り離され、主に道教に流入していった陰陽合一(男女交媾)を聖とする思想が流れ込んでいるらしい。
ただ『密母集』が〝パルナ・シャバリー〟を主題にした句集だと言うのは早計だろう。確かに安井さんは、『葉衣自在菩薩(パルナ・シャバリー)』との出会いが『本書が成立する契機』だと書いている。しかし安井さんは『私が彼女に手招かれつつ、高い合一性を遂げているかどうかは、今は自らが言説することではない』とも述べている。パルナ・シャバリーは安井さんの表現欲求を『手招』く存在であり、あくまでそこへ到達すべき一つの指標(イコン)としてあったのではなかろうか。
この間(注-第四句集『阿父学』から『密母集』に至る約五年間)、私は、私自身の自然とは何かを尋ねつつ、わが生命(いのち)の東洋的源泉を確信することであったが、それが次第にあの芭蕉の地獄性(〝地獄性〟に傍点)と対向してゆくことを自覚するや、はじめて、己が内なる渾沌も具体的な様式をもって顕ちあらわれる気配であった。わが色(しき)なる世界として、本書はそこを繰り返し扱っているはずである。
(『密母集』『後記』より)
こちらの言葉の方が『密母集』の意図に近いと思う。『密母集』には確かに『渾沌も具体的な様式をもって顕ちあらわれる気配』がある。この言葉自体、奇妙と言えば奇妙な言い方だが、『密母集』所収の作品は〝渾沌〟としながら〝具体的〟であり、その具体性がどこかで相互に関連している〝気配〟がある。それが『色なる世界』、つまり安井さんが捉えた現実世界の諸相なのだろう。
もちろんそこには形而上的な観念(霊性)が含まれている。しかしその表現はあくまで猥雑な現世に即している。また安井さんはそれを『芭蕉の地獄性』に重ね合わせている。一般的には芭蕉は晩年〝軽み〟の明透な世界を目指したと言われるが、安井さんは芭蕉文学を〝地獄〟のキーワードで捉えているようだ。ここにも安井さん独自の芭蕉解釈・俳句解釈が表れている。
枯蓮にヴァイオリンは来つつあり
二階から落ちしヴァイオリンも存在せず
夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ
母の家またヴァイオリンの盗まれし
ヴァイオリンとなりゆく犬よ柿の薹
ヴァイオリンに草刈人の歩み来る
大麦は穂にヴァイオリンの上の蛇
ヴァイオリン彳ちたる麦の芒(のぎ)の友
蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン
『密母集』に〝母〟という単語が含まれ、句集が『栗の花おみなは人を孕むらん』で始まっていることからわかるように、この作品集の主題は聖も穢も含めた万物を生み出す〝母性的なもの〟を巡っている。『ヴァイオリン』はその表象の一つだろう。ヴァイオリンの形状から女性の身体をイメージするのは容易い。またそれは音楽を奏でるための楽器である。音楽は人間の五感に直接的に訴えかけ、言葉では表現し尽くせない感情を掻き立てる。ヴァイオリンは言語を超えた感覚的なもの、超論理的直観の物象化だと言っていいと思う。
ヴァイオリンという単語が使われた作品は『密母集』の中に九句ある。『夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ』と『母の家またヴァイオリンの盗まれし』は比較的理解しやすい句だろう。論理的に説明すると面白味がなくなってしまうが、子供を産む女性性の喩としてヴァイオリンが使われている。『枯蓮にヴァイオリンは来つつあり』『ヴァイオリンに草刈人の歩み来る』『ヴァイオリン彳ちたる麦の芒(のぎ)の友』では、生命の盛りであり、異性を惹き付ける女性性としてヴァイオリンが使用されているようだ。『ヴァイオリンとなりゆく犬よ柿の薹』『大麦は穂にヴァイオリンの上の蛇』には微かな罪悪感(背徳感)が漂う。いずれも通常の俳句評釈では読解できない(読解しても意味がない)作品である。
ただヴァイオリンが使われた最後の作品、『蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン』には、『秘密身』という聞き慣れない用語が使用されている。これは酒巻さんが書いていた『祕密集會(グヒヤ・サマージヤ)タントラ』を受けているかもしれない。『秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ』は後期密教教典の一つである。仏教経典の多くがそうだが『秘密集会タントラ』にも複数の写本があり、その内容は一定しない。しかし通常の戒律仏教とは異なり、肉欲を含めた人間の欲望を肯定する教義である。むしろ正面から欲望を受け止めることで解脱に達する道を説いている。女犯を禁じる仏教からは邪宗と呼ばれることもある。
『蓼』は薬味などに使われる辛く苦い植物である。『蓼食う虫も好き好き』という諺になっているように、ほかにおいしい植物もあるのに好んで蓼を食べる人もいる――つまり人の好みは様々という意味である。この『蓼』が生い茂る野原を『秘密身』が行く。『秘密身』だから『蓼』の野原を行くのかもしれない。すると『秘密身』は『ヴァイオリン』に変化(へんげ)する。〝煩悩や欲望を全肯定する身体が(辛く苦い)蓼の野原を行けば、その身はバイオリンに変化する〟といった意味内容がおぼろに浮かんでくる。
このような解釈は、『蓼をゆく』の句が喚起している意味伝達内容の近似値だろうと思う。恐らくこの句の解釈に〝正解〟はない。『蓼』『秘密身』『ヴァイオリン』という言葉からある観念(読解)が導き出されるのであり、その逆ではないからである。句で使われているのは全て日常言語だが、安井さんはそれを確信をもって非日常的な意味やイメージを喚起するために使用している。
暮方の万歳おそろし谷の空
ひるがおの花の深さに姉の家
麦秋の厠ひらけばみなおみな
古春(ふるはる)や死前の飯と死後の糞
母老いてしずかに蛇を啄(つ)く孔雀
はこべらや人は陰門(ひなと)にむかう旅
具体語、抽象語が取り混ぜて使用されているが、『密母集』の諸句の輪郭ははっきりしている。不安で不定形な何事かが言語によって閉じ込められているのである。ここには有季定型写生俳句に代表される伝統俳句では決して到達できない俳句文学の新たな表現地平がある。この表現地平は安井さんによって方法的に獲得されており、その意味で俳句文学の新たな表現基層になり得ると思う。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■