安井は「風土性に支配されることと、そこを劇場もしくは舞台としてドラマを演じることとは別の問題」(『安井浩司選句集』邑書林)と述べている。その「劇場」「ドラマ」というワードに添って言えば、彼の句には「蛇」「貝」「鳥」「鼠」「神」などの多くの役者が登場し、「空家」「火事」「厠」「寺」などの舞台セットが組まれ、「ふろしき」「みがきにしん」「斧」などの小道具が活躍する。これらのワードは強固な意味性を背負っているので、フロイト理論などでキーワードを解釈・定義していき、安井の言語フェティシズムを暴くことも可能だ。しかし、比較的嗜好のはっきりしている安井において、その作業は予定調和に陥りやすい。
ある俳人に興味を持つときとは、人から強く勧められたときか、たまたまその一句に惹かれたときである。私はここで、安井浩司初心者に向けて、彼の句集の神話的世界を存分に味わうことをお勧めすると同時に、「たまたま出会った一句」になるかもしれない句をいくつかご紹介したい。もちろん、安井浩司の句は、句集や句業全体で一つの作品であり、一句を切り出して現存の俳句のセオリーで解釈するなんてナンセンスだという意見もあるだろう。しかし、俳句として書かれている以上、先ず一句の面持ちを確認することも大切だ。たとえば、ヌーの生態を知るためには、その巨大な群を一つの運動体として捉えると同時に、一頭一頭の特徴を見据えることも必要である。そして、蹄があったり、眼があったり、臓物の種類が分かったりして、その共通点から哺乳類であることなどが分かる。全体を云々されることが多かった安井の、一句一句のダイナミズムや構成の緻密さにスポットを当てた読みもまた、彼の作品を理解するのに有意義な営みであるだろう。
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遠い空家に灰満つ必死に交む貝
安井の初期の代表作。「必死に交む」という語と、「灰」に満ちた空家の煙たさから共通に連想されるのは、呼吸の苦しさである。また、二者の配合によって、目を持たない貝にとっての視界は、灰の満ちた空家のようにぼんやりしたものなのかもしれないと感覚される。このように呼吸や視界が極端に制限されていることで、貝の必死さが、感触のみを頼りに相手を捉えようとする、まさぐりとして立ち上がって来る。もっと言えば、「遠い」の語が、「必死」さに含まれる、気の遠くなる感じも引き出しているようだ。 貝のエロス的ま営みが超えようとする個体の境界は、灰の侵食や視界の欠如によって、いよいよ在り処があやふやになり、貝は境界を探り当てようと、ますます必死に励むのである。その状況は、滑稽でもあり、またそれ故美しくもある。『青年経』所収。
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
昼過ぎの芒原のぼんやりとした光陰は、寂しさを掻き立てる。「壊せば」と言いながら、読者は一面の芒の中に立つ小さな小屋を、たしかに想像するところが妙味だ。「の」「を」「ば」と切れずに続いて行く語順も、微量の異和を紛れ込ませていて面白い感触である。呟いてみれば「小屋」「壊せば」のK音、「すぎ」と「すすき」S音のリフレインも心地よい。「みな」という措辞が、芒原の広さを見せてくれている。『阿父学』所収。
亡命の楽人は牛に隠れ行け
亡命の多くは越境によって達成される。牛の放牧が行われているような辺境の農場も、しばしば舞台になっただろう。楽人のような芸術家が亡命しなければならない理由は、迫害か政治の混乱だろうか。即座に思い出すのは、第二次世界大戦におけるナチスドイツ下のユダヤ人の音楽家たちだが、サウンドオブミュージックのラストの山中の亡命シーンなども、亡命の緊張感を知る記憶の一端を担ってくれているようだ。
ここで「牛」は、亡命の背後にある戦争や政治的混乱に対して、平和の象徴として働いている。平和というものは、思い通りには動いてくれないし、気付いたらどこかへ去っている。そして、それは自らを覆い尽くしてくれるほどには大きく柔軟ではない。
銃を持って徘徊する兵士に見つからぬよう、身を屈め、牛に隠れて国境を目指す様は、いかにも滑稽である。その滑稽さが、亡命の恐ろしさをイロニカルに伝えている。『霊果』所収。
正しくは十指もてさす麦の秋
ひと昔前に女子高生の間ではやったエッグポーズをご存知の方は、それを麦畑に向かってやっていると思ってもらえばいい。広々と黄金色に輝く麦の全貌を指し示すには、普段何かを示すときのように人差し指一本では足りない。全ての指で、体いっぱい使わなければ、その広さを表現することは出来ない。そんな、麦の秋の豊穣への寿ぎが溢れている。『山毛欅林と創造』所収。
かつこうや泉の割れて四つの川
「四つの川」は、四大文明を生んだ四大河川を思い起こさせる。郭公の鳴く森の中、、泉のほとりに居る私は、溢れる水が四本の小川となって分岐してゆくのを見下ろしている。その小川に四大河川のイメージが重なることで、その上方からの視線が、あたかも神の視座であるかのようだ。三鬼の「穀象の群を天より見るごとく」が直喩によって「天」の視座を明示しているのに対し、掲句は「四つの川」から引き出される物語によって、それを引き出しているのである。託卵しては繁栄する郭公も、文明化の一途を辿る人間の醜くもしたたかな側面を言い当てている。とまで考えるのは深読みだろうか。まずは、人為の及ばない静寂の森の体現として、「郭公」が効果的に働いている。『山毛欅林と創造』所収。
つぐみらの婚や一切誓わずに
秋の澄む水や紅葉の上を飛び交う、鶫の自由が描かれている。「誓」という文明的な行為に拠らない、鶫らの婚姻の結束の強さを、「一切」の語の潔さが示唆している。飛び交う姿や声が、野山の高みの、人間の手の届かないところにあることからも、句の根底に原始的な愛への憧憬を見ることができる。『山毛欅林と創造』所収。
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この稿では、説明のし難さと紙幅に悩まされつつも、安井の神話を構成する者たちの声を、いくつか、あえてモノフォニックに精査してみた。これらの句のほかにも、「遠泳やさくやは蛇の盗まれて」「春の雁このまくらぎも死ぬつもり」「盆休み木蔦は斧をくるみ隠して」「春あらし物は蔵にて叫びおり」「天地まず菊戴が躍り出て」など、非常に詩性の高い一つ一つの句がポリフォニーを成し、彼の壮大な神話を作り上げている。
彼の世界は、どこから眺めても、誰の視点になっても、必ずその形に見える打ち上げ花火のように、完成へと爆発する未完の光である。その世界は、彼自身の展開する独自の論の体現でもあるから、神話の全てを把握することにおいては、安井を超えることはできない。むしろ我々読者は、彼の球形舞台のどこか観易い位置に座席を決めて、自らの角度で、ドラマを解釈していけばよいだろう。舞台は上演され続けている。観客席に、定員はない。
神野紗希
(「豈」47号 2008年11月 より転載)
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