花野わが棒ひと振りの鬼割らる
安井さんの処女句集『青年経』には『渚で鳴る巻貝有機質は死して』、『遠い空家に灰満つ必死に交む貝』、『雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う』といった、安井文学を代表する作品が含まれている。しかし安井さんはこれらの句を墨書にしていない。『青年経』から選ばれたのは『鳥墜ちて青野に伏せり重き脳』(色紙)と『花野わが棒ひと振りの鬼割らる』(軸)の二点のみである。
安井さんは『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍所収のインタビューで、『やっぱり軸にすることで完結した世界、それ自体、自立した世界となるような作品って、あるんだなぁと実感しました』と述べているので、文学的な価値とは別に、これらは墨書にするのにふさわしい作品なのだろう。また『鳥墜ちて』は『青年経』序文で、安井さんの師・永田耕衣氏が『私の初見の句』だと書いた作品である。耕衣氏は『私は、その奇想の瑞々しさに瞠目しかつ歓喜した』と述べている。『鳥墜ちて』の墨書には、安井さんの師への愛慕が込められているのかもしれない。
処女作品集に、作家の資質の核心が表現されているのは今も昔も同じだと思う。まだ表現技術が未熟で、作家の素が表れやすいからでもある。『青年経』は『白(はく)』、『異人伝』、『移行形の鴉』の三章から構成される。『青年経』というタイトルはもちろん、これらの章名も大変重要な安井文学読解の手がかりだと思う。特に『白』に〝はく〟とルビが振られているのは理由があるだろう。
夜の地下室に銅線の渦鼠死ぬ (『青年経』『白』より 以下同)
青い胴ならび火傷の街の椅子
死者に触れし翅音巨船の白昼(まひる)の蛾
少女の脚へ銅線からまり遠い戦火
青い焦土に棒立ち脳からほぐれてくる
がらんどうの入日が橋上の父威す
橋上に老人生きて水の奔走の青さ
何ごとも起らぬ路面で血を嗅ぐ犬
安井さんは作品に社会事象を取り込むのを好まない作家である。直截な社会批判を表現するよりも、意味やイメージを複雑に交錯させ、一義的な意味伝達内容を喚起させない言語構造物によって現代を表現しようとする。その意味で〝戦後詩〟ではなく〝現代詩〟的作家である。
しかし『白』章には安井さんの戦後体験(認識)が色濃く表れているように思う。『夜の地下室』『火傷の街』『青い焦土』『戦火』といった言葉(イメージ)はその後の安井作品で使用されていない。『死者』や『少女』には、具体的な戦死者のイメージがまとわりついている。また『がらんどうの』と『橋上に』の二句に表れる〝橋上〟は、恐らく鮎川信夫の詩篇『橋上の人』を意識している。
父よ、
悲しい父よ、
貴方が居なくなってから、
がらんとした心の部屋で、
空いた椅子がいつまでも帰らぬ人を待っています。
寒さに震えながら、
貴方に叛いたわたしは、
火のない暖炉に向いあっています。
(鮎川信夫『橋上の人』Ⅶ 冒頭 昭和二十五年[1950年])
橋上の人よ、
あなたの内にも、
あなたの外にも夜がきた。
生と死の影が重なり、
生ける死人たちが空中を歩きまわる夜がきた。
あなたの内にも、
あなたの外にも灯がともる。
生と死の予感におののく魂のように、
そのひとつが瞬いて、
死者の侵入を防ぐのだ。
(同 Ⅷ 部分)
鮎川の『橋上の人』は、同世代の戦死者へのレクイエムである。彼らを決して忘れず橋の上に佇み続けることは、戦争を生き延びた者にとっての同世代と同時代に対する誠実な思想的態度だろう。しかし戦後に新たな生を始める世代が鮎川らと同じ姿勢を取る必要はない。
安井さんの『がらんどうの入日が橋上の父威す』、『橋上に老人生きて水の奔走の青さ』という句には、戦中世代に対する批判意識がはっきりと表現されている。『橋上の父』は『がらんどうの入日』に脅かされている。彼はもう日が沈みかかっている人なのだ。『橋上』の人は既に『老人』である。だが橋の下には『青』い『水の奔走』が彼を置き去りにして流れているではないか。『白(はく)』は〝白〟紙還元の意味である。
父葬る眼(まなこ)みひらき花の村 (『青年経』『異人伝』より 以下同)
鶴の分身冴えざえと落日へ泣く若妻
菩提樹に胎児ら曝書のごと眠り
父の棺おく筵があなたの略奪地
老人の胸くろければ死す雁なく岸
バラ咲く倉精子たくわえ父子眠る
胎児を通し毬糸曳きずる父の勝利
馬肉燻し渚にからまる兄弟よ
雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う
拇印もたぬ鳥翔つ樹下に僕ら座し (『青年経』『移行形の鴉』より 以下同)
嬰児わが塔として立つ卵の辺に
花野わが棒ひと振りの鬼割らる
個々に鴉を落とす冬日の中の彼
青胡桃井戸にわれらの太鼓落つ
『経』が付いていることからわかるように、句集『青年経』という表題には安井さんが念誦し成就すべき願いが込められている。自分こそ戦後の青年世代を代表する作家であらねばならないという意志である。『白』章が避けては通れない同時代の総括であるとすれば、安井文学は本質的に『異人伝』、『移行形の鴉』章から始まる。
『異人伝』章にはその後の安井文学ではなじみ深い『父』、『子』、『兄弟』、『妻』、『妹』などの聖家族が現れる。彼らは具体的輪郭を持たず、『父』や『子』といった存在を規定する原初へと遡行していく。その白眉が『雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う』である。この句はどのように解析しても平明には説明できない。丸暗記することで様々な意味とイメージを封じ込めるほかない作品である。比喩的に言えば安井さんは『白』のタブララサから、『異』の世界へと第一歩を踏み出したと言うことができる。この方向性は現在まで変わっていない。
『移行形の鴉』章ではその表題通り、早くも安井文学の変容が始まっている。この章の収録作品で『鴉』が表れるのは『個々に鴉を落とす冬日の中の彼』一句のみである。『彼』は寒さと孤独を想起させる『冬日の中』で、苗を植えるように『個々に鴉を落と』してくる。黒々とした染みを地上に点々と印していくのである。この『彼』には勿論安井さんの自我意識が投影されている。
『移行形の鴉』で作家自身を指すと措定できる言葉(『僕ら』、『わが』、『彼』、『われら』)を含む作品は五句ある。作家は〝座し〟〝立ち〟〝割り〟〝落とす〟という変化を続けている。これらは広義の述志の句である。中でも『花野わが』は最も晴れやかで意志的な作品だろう。作家は花盛りの野で棒一振りで鬼を割る。邪気を払うかのようなこの句は、なるほど墨書として飾り、眺めるのにふさわしいと思う。
『花野わが』は、もしかすると安井さんにとっても護符のような意味を持つ句なのかもしれない。高柳重信が『船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな』で鮮やかに彼の航路を指し示したように、美しい花に満ちた自然の中で〝異〟なる『鬼』を割る姿に、安井文学のアポリアを垣間見るのも面白い。
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昨年の九月から始めたこの連載も今回で最終回になりました。当初、五、六回も書けば終わりだろうと思っていましたが、他の執筆者の方との兼ね合いで、もう少し、もう少しと続けているうちに二十回も書いてしまいました。さすがに墨書の審美的価値だけでは書き続けることができず、途中から作品解釈を交えましたが、おかげで安井文学により親しむことができました。ただもう本当に限界です。ちょうど『増補 安井浩司全句集』が、僕の扱い方が荒っぽいせいか並製製本の弱さか、何度も読み返すうちにバラバラに壊れてしまいました。しばらく安井文学から離れ、また機会があれば安井さんについて書かせていただきたいと思います。長い間ありがとうございました。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■