鶸湧くや異木ふたつの十文字
この句もまた難解である。意味的に読み解き難いだけでなく、修辞的にも極めて高度な作品である。いわゆる前衛俳句には難解作品が多い。しかしここまで複雑な作品は少ないだろう。今回安井さんが墨書にした作品では最難関の句だと言っていい。まるで禅の公案のようだ。この墨書軸は俳人の豊口陽子さんが所有されているらしい。豊口さんは、安井さんの唯一のお弟子さんだと聞いたことがある。さすがにお弟子さんは、師の真骨頂をよく理解しておられる。
まず単語の検証である。『鶸(ひわ)』はスズメの仲間に属する小鳥である。独特の黄緑色の羽をしているので、古来から着物の染めなどで、〝鶸色〟という名称が使われている。群れで行動することが多いので、『鶸湧くや』は数十羽の鶸が飛び立った光景だろう。
『異木』は広辞苑で調べると二つの読み方がある。①『[いぼく]珍しい樹木』、②『[ことき]異なる木、他の木』である。②は用例に清少納言の『枕草子』があがっている。三七段の『桐の木の花、むらさきに咲きたるはなほをかしきに、葉のひろごりざまぞ、うたてこちたけれど、異木(ことき)どもとひとしういふべきにもあらず』である。現代語訳では『桐の木の花が、紫に咲くさまはなおいっそう風情があり、葉の広がるさまは、いやになるほど大げさだが、ほかの木々と同じ(風情)だとは到底言うことができない(ほど素晴らしい)』というくらいの意味である。
つまり〝いぼく〟は一般的な読み方だが、〝ことき〟は平安時代からある古い用例である。安井さんは学識ある作家だから、思わずこちらの読みを採用したくなる。しかし安井さんは漢字の読みを指定したい時は迷わずルビを振る作家である。原則として〝いぼく〟と〝ことき〟の二通りの読み方があると考えた方がいいだろう。
以上の単語の意味を前提に、できるだけリテラルに句を読解してみたい。『鶸湧くや』の切れ字で意味が分断されると素直に受け取れば、後は『異木ふたつの十文字』である。これも素直に五七五定型に即せば、『異木ふたつの/十文字』で意味的に切れることになる。全体は『鶸湧くや/異木ふたつの/十文字』となり、①『珍しい木が二本、十文字に交差しているところから、鶸の群れが湧くように飛び立つ』、②『それ(何の木を指すのかはわからない)とは異なる木が二本、十文字に交差しているところから、鶸の群れが湧くように飛び立つ』、という解釈が可能になる。
イレギュラーだが『鶸湧くや/異木/ふたつの十文字』で切れると措定すると、なにやらシュルレアリスティックだが、『珍しい木(それとは異なる木)と、二つの十文字から、鶸の群れが湧くように飛び立つ』という意味内容になる。あるいは『鶸湧くや異木/ふたつの十文字』で切ることもできる。この場合は、『珍しい木(それとは異なる木)から鶸の群れが湧くように飛び立ち、二つの十文字(がある)』という解釈になる。現代詩のようにイメージが並列された作品と考えれば、この読解も不可能ではない。
しかし多くの読者の方は、どの読解にも納得できないものをお感じになるのではなかろうか。ほとんどの場合、俳句は評釈という方法で読み解かれる。俳句の言葉は現実事物(あるいは作家の実人生)と一対一で対応しており、文字通り(リテラル)に表現されているその意味内容の裏面にある〝だろう〟余白(俳句の余韻)を読者それぞれが楽しむのである。しかし『鶸湧くや』はその方法では読み解けない。
鶸湧くや/異木・ふたつの・十文字
「/」は意味的な区切り、「・」は並列である。『鶸湧くや』との繋がりがどうであれ、この句の読解が『異木ふたつの十文字』の解釈にかかっているのは疑いない。しかしどの箇所で意味的に区切っても焦点は合わない。残る可能性は、『異木』『ふたつの』『十文字』が並列されていることである。
『異木』の読みは〝いぼく〟と〝ことき〟のどちらでも良いと思う。〝異なる木〟と読める以上、それは『二』のイメージを喚起している。『ふたつ』は文字通り『二』である。もし『ふたつ』が『異木』を受けているなら安井さんは〝二本〟と表記しただろうから、『ふたつ』を〝異木二本〟と解釈するのは無理がある。『十文字』が二本の棒の交差であることは言うまでもない。つまりこの作品は『二』の重畳・撞着表現から構成されている。
あえて読解すれば、『異なる木があり、その〝二〟(の存在あるいはイメージが)が十文字に交差する時、鶸が湧き出すように飛び立つ』という意味になるだろう。永遠に交わらない平行線が交差する時、起こり得ないことが起こるのである。
黄揚羽は発たんと眠れる宗派より
円のなかを三角にして韮の畠
寒雷が沖を打つとき湯洩る魚
日のごときもの現る夜空の大裂けに
夏鷲湧くと内なる楯が背の方に
句集『四大にあらず』には、『発たん』-『眠れる』、『円』-『三角』、『寒』-『湯』、『日』-『夜空』、『内』-『背』と、二項対立的な意味やイメージを含む作品が頻出する。これらの句も通常の読解では読み解けない。作家によって二項は対立するものとして認識されており、かつその並列は、相反する二項の弁証法的統合(の意欲)を示唆しているからである。そこには不可能を可能にしようとする投機がある。
振り返って『汝と我』の後記文に、絶対言語への信仰の思いを述べてからはや十年に近く、今とてその願いに何の変わりはない。ただ歩むほどに、私共の自然言語の裾野や涯を旅する外はなく、その奥深さを知らされるばかりであった。それにしても、自分自身の『現実』を奮い立たすに苦心した歳月でもあり、その結果としての、やや複雑な様相を呈した必然の句篇である。
(『四大にあらず』『後記』より)
『四大にあらず』の『後記』で安井さんは、『絶対言語』と『自然言語』を対比させて使っている。自然言語はわたしたちが日常的に使っている言葉である。法令から文学作品に至るまで、すべての言葉は自然言語で書かれる。これに対して絶対言語は観念である。キリスト教文化では神の言葉、東アジア圏ではすべての文字の源泉である唯一の神聖文字に比定できるだろう。つまり絶対言語は記述できる文字の形としては存在しない。自然言語を使いながら、ある瞬間にその背中が垣間見えるような至高観念である。
しかし安井さんは絶対言語を追い求めている。安井さんにとってそれは幻ではなく、絶対言語の方が『現実』なのである。だが絶対言語はその可能性すらすぐに見失ってしまうものである。『自分自身の『現実』を奮い立たすに苦心した歳月』という言葉は安井さんの苦闘を表現している。また自然言語を使って絶対言語を表現しようとすれば、言語表現は必ず歪む。難解になる。『四大にあらず』が『その結果としての、やや複雑な様相を呈した必然の句篇』になっているという安井さんの自己認識は正確だと思う。
万物の端緒となれり白椿
鴉裂いて火の源(みなもと)を掴み取る
これらの作品には、安井さんの絶対言語(的なるもの)への志向が端的に表現されている。しかし安井さんは絶対言語への〝志向〟を直截に表現した作品を、とりたてて重視していないようだ。安井さんはこの積極的かつ肯定的な二句を『自選一三〇句』で採っていない。墨書にもしていない。これらは彼の到達点ではないのである。
安井さんは『汝と我』『四大にあらず』『句篇』の三冊を〝句篇三部作〟と呼んでいる。この三部作での絶対言語の探究は、近作の『山毛欅林と創造』『空なる芭蕉』でも続けられている。ただ『山毛欅林と創造』の『後記』で安井さんは、『〈霊〉的高揚』という言葉を使った。再びアプローチの方法が変わったのである。
また〝句篇三部作(絶対言語三部作)〟にも起伏がある。特に『四大にあらず』は安井さんの句集タイトルでは唯一〝非ず〟という否定形を含んでいる。『山毛欅林と創造』での方法論変更の端緒は、『四大にあらず』にあるのではないかと思う。『四大にあらず』は始めたばかりの絶対言語探究の試みに、初めて安井さんが迷いと不安を感じた句集ではなかろうか。それが最も鮮やかに表現された句が『鶸湧くや異木ふたつの十文字』だと思う。
かりそめの頂点より、逡巡の極点を重視するところに安井さんの志の高さがあるだろう。また絶対言語への投機とは、本質的にはそのような形でしか表現できないのかもしれない。『骰子一擲いかで偶然を破棄すべき』(マラルメ)である。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■