田山了一さんのTVドラマ批評『No.067 Nのために』をアップしましたぁ。湊かなえさん原作で、榮倉奈々、窪田正孝、賀来賢人、小出恵介、原日出子、小西真奈美、三浦友和さんらが出演されているTBSさんのドラマです。全10話放送予定で次が9話目ですから、クライマックス間近ですねぇ。不肖・石川も見ておりますが、三浦友和さんって名優なんだぁとつくづく感じますです、はい。
んで田山さんは、『映像、特にテレビと小説との・・・決定的な違い、というものについて考えざるを得ない。・・・テレビから、最終的には決して排除できないものは現在性だ。・・・一方で小説、文学とは「遅れ」てくるものだ。リアルタイムに起こったことを総括し、「思想」にまとまってくるのを待たなくてはならない・・・そうなると・・・奇妙な齟齬が生じることがある。よい悪いということではない、ずれの感覚。湊かなえの小説を原作とする「Nのために」には、とりわけそれを強く感じさせる要素がある』と批評しておられます。確かにそのとおりだなぁ。
前にも書きましたが、最近の大衆小説系作品は抜群にツカミが上手くなっています。読者が立ち読みする30ページくらいが勝負といった作品も多い。人間の成熟が遅くなり、一昔前のアメリカのやうに奇矯な現実事件が増えていることも、まさか!といふ設定を立てやすくなっている一因であります。『Nのために』も〝ドロドロ系〟の小説です。ただそれには因果関係がある。心理描写がキーになる小説ではその背景を描きやすいですが、絵で〝ツカム〟必要がある映画やドラマで小説のドキリとする部分をいきなり映像化してしまふと、やはり異和感があるんですね。
情報化時代になって、田山さんが書いておられるやうに文字はますます〝遅れ〟のメディアになりつつあります。情報自体は視覚で得られる。しかしその背後に何が拡がっているのかを分析・叙述するのは文字メディアの仕事です。文字メディアは視覚の現在性から遅れるといふよりは、明確な意志を持って遅れなければならない。むしろどこまで掘り下げられるのか(現在性から遅れられるのか)が文字メディアの質を決めることになるでせうね。
田山さんは、視覚的メディアと文字メディアのズレを指摘された上で、『ずれの感覚から、新しい表現が生まれることはないのだろうか』と書いておられます。これはなにも視覚メディアだけが考えるべきポイントではなく、文字を使う文学メディアも熟考すべきでせうね。視覚といいますか、人間精神のヴィジュアル化はもう止められません。遅れのメディアである文学が視覚的要素を取り入れることで、〝新しい表現が生まれる〟可能性もあるわけです。
■ 田山了一 TVドラマ批評『No.067 Nのために』 ■