鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第025回 さて、古唐津』をアップしましたぁ。むむっ、今回は古唐津の盃と酒器と皿ですな。う~、こんなセットがあれば素敵な晩酌ができるぢゃありませんかぁ。鶴山さん、ろくな古唐津を持っていないと書いておられますが、このくらひなら充分だと思いまふ。ま、上には上があるのは確かですけんど、人間哀しい動物で、もし数百万円もする骨董を入手しても、それを日常的に使うことはでけんと思ふのでありまふ(爆)。鶴山さん所有の古唐津は、気軽に使える上限の作かもしれまへん。
鶴山さんは、『ある美術批評家の方が、初めて古唐津を買った時のことを書いたエセーを読んだことがある。・・・・大変申し訳ないが、その時お買いになった盃の写真を見なくても贋作だとわかってしまう文章である。・・・・なぜ文章を読んだだけで贋作だとわかるのかは、本当に骨董がお好きな方には説明するまでもないだろう』と書いておられます。確かにさうなんだよなぁ。骨董好きの文筆家で骨董関連の文章を堂々と書いていても、ぜんぜん目が利かない人っていらっしゃいます。鶴山さんは武士の情けで筆を緩めているやうに感じますが、そういふお方はたいていの場合、本業の文筆の方もうさんくさいですね(爆)。
で、古唐津は骨董の中では王様と言っていいほど高価で人気のある焼物ですが、鶴山さんは書きにくかったようです。『この連載で、日本人にとって最高の焼物は〝作為が感じられない作為ある焼物〟であると書いた。古唐津はその最高峰だと言っていいだろう・・・しかしそんなことを書いていると、「この形がたまらない」、「釉薬の景色が素晴らしいねぇ」といった、ごくごくありふれた骨董談義になってしまう。骨董好き同士でそういった会話をするのは楽しいのだが、人様に読んでいただくほどの話ではあるまい』と書いておられます。普通の骨董談義は書かないと決めておられるから、鶴山さんの骨董エセーは面白いのでありますぅ。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第025回 さて、古唐津』 ■