第1回 辻原登奨励小説賞受賞作 三澤楓『教室のアトピー』(第03回)をアップしましたぁ。不肖・石川、編集者として文学金魚新人賞選考会を傍聴しましたが、今回、第1回 辻原登奨励小説賞が三澤楓さん、大野露井さん、小松剛生さんの若い3人の作家に決まったのはあくまで作品評価の結果です。若いから受賞したわけではごぢゃりません。
もちろん文学の世界に限らず、若いといふことはアドバンテージになり得ます。昨日、物語はもの凄く単純化すればパッケージ商品だと書きましたが、若いうちはなかなか物語をパッケージ商品にできないものです。それを軽々とやってのけられる若い作家には、やはり才能があるのです。
もちろん若くして開花する才能にも落とし穴はあります。パッケージ化が得意な若い作家はパッケージという外枠を設定できる能力を持っているのであり、それが限界にもなり得るのです。パッケージを整えることばかりに気を取られると、中身の冒険や新鮮味が損なわれることになりかねません。気がつくと、凡庸な作品しか生み出せなくなってしまうのですね。冒険的作品はパッケージ化がとても難しいものですが、それを適度なところで商品パッケージに仕立て上げてしまふからです。
ただま、若いといふことは時間的余裕があるといふことです。今後直面するだらう、様々な困難を乗り越えてゆける可能性を持っている。若さはアドバンテージでありモラトリアムでもあるわけです。逆に言えばある程度の年齢に達した作家は、高い成熟を作品と行動で示さなければ、頭角を現すのは難しいといふことになります。
中年以上でデビューしようという作家は、作品はもちろん、その知性のあり方全てが試されます。なぜデビューが遅れたのか、明確な理由が必要になるということです。そこそこ優れた作品を一つ仕上げたけれど、新人だからもっと小説作法を勉強したい、文壇を生き延びるノウハウが知りたいと言うようでは話にならない。デビューしたら、10年前から業界にいる感じで活躍できなければなりません。中年以上の作家デビューは一種のヘッドハンティングだということです。スポットライトを浴びた瞬間から全開で能力を発揮できなければ先はないでしょうね。
若いことにも年を重ねていることにもメリット、ディメリットがあります。ただ小説は人間の愛憎といった、知性(論理)では決して満足な解決が得られない事柄を作品にし、一つの調和的世界に作り上げてゆく芸術です。高度な社会性が要求されるのが小説芸術というものであり、若いか中年かに関わらず、自らが置かれたあらゆる社会的状況を事細かに把握・理解できない書き手は小説家に向いていない。第一回金魚屋新人賞では、ああなるほどと納得できるような、老獪な知性を読み取れる中年以上の作家の作品が見当たらなかったということです。