岡野隆さんの俳句評論『唐門会所蔵作品』『No.018 自筆原稿『句篇』その③―『句篇(三)-交響の秋-』』をアップしましたぁ。岡野さんは高柳重信を中心とする前衛俳人によって『かつてないほど大胆かつ性急に新たな表現形式の探究が行われた』が、『俳句が「俳句形式」から決して逃れ得ない芸術であることを想起すれば、この形式面での前衛志向がいずれ限界に達するのはわかりきったことだったはずである』と述べておられます。
この認識に立った上で、『安井氏は多行俳句を一度も試みていないという意味で(中略)「俳句史の一本道に繋がる本格的俳人」だろう。(中略)伝統的俳句形式の枠組みの中に留まりながら、強固な俳句形式(外殻)の中にある(中略)内実を質的に変化させようという指向が安井氏にはある』と論じておられます。
このような岡野さんの考察は、唐門会さん所蔵の膨大な安井氏自筆原稿を読み込むことで初めて可能になったのだと思います。唐門会所蔵草稿は、確かに安井氏はなぜこれほど多作なのか、俳句という形式にがんじがらめになった芸術で、なぜかくまで自由なのかという問いを呼び起こしますね。通常、難解な作品を書くのは詩でも散文でも骨が折れます。しかし安井氏は易々と難解な作品を生み出している。難解の質が違うのでありまふ。
今回の岡野さんのコンテンツは、文学の世界においても積極的な情報開示が新しい認識を生む良い例だと思います。もちろん全ての情報を開示できるわけではありませんが、積極的情報開示が文学における新たな共通パラダイムの構築に寄与する可能性は高いでしょうね。
不肖・石川の回りには、聞かれてもいないのに『俺は秘密の情報知ってるんだ。言えないけど』と吹聴して回っているプチ権力志向オジサンがけっこういます。石川は『わはは』と笑ってスルーするのですが、責任ある本当の権力者は沈黙しているものでござる(爆)。文学の世界でも、情報を隠しながらチラチラひけらかすことを自らの権威付けに利用しようとする作家はまだいます。しかし絶滅するだろうな。情報開示がさらに情報呼び込み、新たな認識パラダイムを作り出すポスト・モダン世界の潮流は止められないと思います。
それにしても岡野さんの、『俳句初心者はもちろん、前衛俳句を自称し実践しながら、なんら前衛に値するような形式も思想も見出せずに黙って伝統俳句に回帰してゆく数多くの俳人たちもまた、気がつけば「けり」「かな」「や」俳句を量産することになる。俳句形式が俳句作品を生み出すとはそういうことなのだ』といふ言葉は厳しいな。でも事実でありまふ(爆)。
俳壇外から見た場合、俳句文学で一番面白いのは前衛派の作品(試み)です。彼らが俳句文学の先端を走るトップランナーだからです。しかしこりは伝統俳句がダメだといふことを意味しなひと思います。伝統俳句がつまんないのは、悪魔のように「けり」「かな」「や」俳句に没入して、その可能性を底の底まで探る作家が出現しなひからでせうね。
■ 岡野隆 俳句評論 『唐門会所蔵作品』『No.018 自筆原稿『句篇』その③―『句篇(三)-交響の秋-』』 ■