鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第024回 太田垣蓮月尼の信楽水指(前編)』をアップしましたぁ。今回はちょっと長いコンテンツで図版も多くなりましたので、鶴山さんとご相談の上、前後二回に分けてアップします。幕末から明治初期の京都の尼僧・太田垣蓮月さんについて書いておられます。歌人、書家として知られますが、最も有名なのは彼女が作った陶器でしょうね。『蓮月焼』と呼ばれております。
骨董エセーに限らず、鶴山さんのコンテンツは書き尽くそうといふ姿勢があるところがいいです。批評はすべからくそうなのですが、だいたい一回目に書いた文章で、その著者の考え方の骨格は出ます。よほどのことがないかぎり、最初10枚で書いた原稿を300枚の本にしたところで、最初の文章で表現された骨格は変わらないものです。だからこそある対象について書く時は、性根を決めて書き尽くそうとしなければならない。そうしないと、いつまでもグズグズの文章を垂れ流すことになる。
またその都度その都度、対象に関する思考を論理的にきっちりとまとめてゆくことは、作家の思想と感受性を飛躍させる基盤になると思います。鶴山さんは「骨董は趣味の遊びです」と言い切っておられますが、骨董エセーはそうではないでせうね。文章を読めば、この方の歴史感覚が一種独特のものであることがわかると思います。
不肖・石川、第二次世界大戦の話をしていて、鶴山さんが「あーあの戦争はひどかったねぇ、焼夷弾から逃げ回ったよ」とおっしゃったのに、爆笑したことがあります。もちろん鶴山さんに戦争体験はなく、冗談でおっしゃったのですが、鶴山さんの感覚では江戸後期くらいまでの雰囲気はなんとなくわかり、元禄頃になると全然わからなくなるそうです。
こういふ感覚って、確かにあると思います。また知性によって後天的に獲得する人も少数ですがいるようです。例えば森鷗外は幕末の文久生まれですが、江戸初期くらまでの時代感覚を肉体的なものとして感受していた気配があります。鶴山さんは骨董で遊びながら歴史感覚を養っておられる。単純な骨董エセーではなく、『言葉と骨董』である所以でしょうね。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第024回 太田垣蓮月尼の信楽水指(前編)』 ■