於・山口県立美術館 会期=2013/04/11~05/26、神奈川県立近代美術館 鎌倉 会期=2013/06/08~09/01、
入館料=900円(一般) カタログ=2200円
評価=総評・85点 展示方法・80点 カタログ・75点
松田正平は大正二年(一九一三年)に島根県鹿足郡青原村(現・津和野町)に生まれ、平成十六年(二〇〇四年)に九十一歳で没した洋画家である。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、藤島武二に絵を学んだ。同郷の香月泰男も藤島教室の生徒だった。山口県宇部市の有志たちの援助を受け、昭和十二年(一九三七年)に五年間の予定でパリに留学するが、第二次世界大戦が勃発し二年後に帰国している。戦後は東京、神奈川、山口、千葉に移り住み、各処でアトリエを構えて仕事をした。戦前だが池袋モンパルナスの芸術家村に居住したこともある。
松田は戦前から国画会を中心に作品を発表していた。しかし五十三歳の時に退会を決め、慰留されて会員には留まったが、その後基本的にはどの会派にも所属せず独自の活動を続けた。同郷の香月が、彼の本意であったかどうかは別として、シベリア抑留体験を主題にした『シベリア・シリーズ』で画壇のスターになっていったのに対して、松田は売れない画家のままだった。松田の才能を発見したのは現代画廊の洲之内徹だと言っていいだろう。昭和五十三年(一九七八年)に現代画廊で個展を開いた頃から松田の仕事が注目され始める。五十九年(八四年)、七十一歳の時に第十六回日本芸術大賞を受賞して、ようやくその名が広く知られるようになった。ただ松田自身は変わらなかった。あるいは変わりようがなかった。絵の値段は上がったが、その後も淡々と仕事をし続けた。
松田正平は香月泰男や熊谷守一と同様、洋画を日本人の表現として消化・昇華した正統な〝日本の洋画家〟である。文学金魚で詩人たちが議論しているように、明治維新によって滅んだ芸術と新たに生まれた芸術がある。短歌と俳句は微修正されただけで生き残った。小説は大きく様式を変えたがこれも存続した。しかし詩の世界では漢詩が滅び、その代わりにヨーロッパ詩の翻訳から始まった自由詩が生まれた。絵画の世界ではいわゆる日本画(狩野派、四条派、土佐派、琳派などの流れを汲む絵師たちの作品)と文人画(儒者や俳人の作品)が、簡単に〝日本画〟と総称されて生き残った。ただ洋画は自由詩と同様、維新後に新たなジャンルとして成立した芸術だった。その受容のスピードは驚くべきものだったが、〝日本人の洋画〟を確立するのは困難な道筋だったのである。
『自我像』(松田二十三歳) 昭和十一年(一九三六年) 油彩/カンヴァス 縦六〇・五×横四五・五センチ 東京芸術大学蔵
『自我像』(松田四十二歳) 昭和三十年(一九五五年) 油彩/カンヴァス 縦四六・三×横三七・八センチ 山口県立武術館蔵
『自我像(Mの肖像)』(松田七十三歳) 昭和六十一年(一九八六年) 油彩/カンヴァス 縦四一・五×横三二・〇センチ 山口県立武術館蔵
約半世紀の間に描かれた松田の自画像である。自画像や画家の家族の絵は基本的に〝売り絵〟ではない。生前に非常に高い評価を得た幸運な画家を除いて、画家の自我像やその家族の絵を掛けて楽しもうというコレクターはほぼいないからである。画家は自らの精神状態を確認し、新たな絵の技法を試したい時に自我像を描く。その意味で画家の自我像には、その時々の画家の境地がはっきりと表現されている。
昭和十一年(一九三六年)の『自画像』は東京美術学校の卒業制作として描かれた作品である。強い筆遣いで顔や服の輪郭を捉えている。三十年(五五年)の作品は複雑な作品である。かなりの厚塗りで、髪は黒、顔と首は肌色、服は赤、壁は黄色なのだが、その下から覗く色のグラデーションによって絵を成立させようとしている。画家の興味が絵の質感(色や筆遣い)表現に向けられていることがはっきりわかる作品である。六十一年(八六年)の自画像は笑っている。この頃の松田の写真と比べれば驚くほど似ているので具象画だと言えるが、髪や顔、服、それに背景の処理は確信的に抽象化されている。現実とは異なる茶色と青と白で顔が表現されているのだ。それに色彩が淡い。このような変化の中に、松田が半世紀をかけて辿り着いた絵画思想が表現されている。
『裸婦(草の上)』 昭和五十三年(一九七八年) 油彩/カンヴァス 縦六五・四×横九一・三センチ 光市文化センター蔵
松田は昭和五十七年(一九八二年)四月十七日の手記に、「何十年振りで裸婦を描いたろうか。二十分、十分、五分とポーズをモデルはとる。あさ黒い痩せた女はまづまづの体をしている。太もものあたりやはり女体の艶がある。これからは暇をみて描いてみたい」と書き残している。人物であれ静物、風景であれ、松田は実物をじっと見つめ、それを写生して作品化していた。しかし完成作は『裸婦(草の上)』のような絵なのだ。対象を見つめ写生することは、松田にとって〝再現〟することではない。対象の持つある本質を掴むための作業である。
『祝島』 昭和二十五年(一九五〇年)頃 油彩/カンヴァス 縦三七・七×横四五・〇センチ 個人蔵
『瀬戸内海』 昭和四十六年(一九七一年)頃 油彩/カンヴァス 縦四五・六×横六五・三センチ 個人蔵
約二十年を隔てて描かれた松田の風景画二点である。昭和二十五年(一九五〇年)の『祝島』は明らかに具象画だが、四十六年(七一年)の『瀬戸内海』は、これはもう抽象画ではないのかとお思いになる方もいらっしゃるだろう。しかしいずれも具象画なのだ。『瀬戸内海』で松田は淡い青の海に浮かぶ船と遠くに見える島、それに大きな雲が浮かぶ夕方の茜色の空を描いている。この物体(風物)の配置とその形と色が、松田が捉えた瀬戸内海の本質なのである。
松田もまた、多くの洋画家たちと同様、欧米絵画の影響を強く受けている。東京美術学校で絵を学びパリ留学まで果たした松田は、苦学した画家たちよりも欧米絵画の動向を迅速かつ正確に把握できる位置にいたと言っていいだろう。しかし松田は同時代に流入したダダイズムやシュルレアリスム、アンフォルメルなどの欧米絵画運動(様式)の直截な模倣はしなかった。端的に言えば松田は洋画とは何かを考え、日本人の洋画とは何かを実践的に探究し続けた画家である。
維新以降の日本の洋画史は、大別すれば二つの流れに分類できる。一つは欧米絵画動向にビビッドに反応した画家たちで、いわゆる〝前衛派〟である。松田の同時代で言うと、詩人・美術批評家の瀧口修造に率いられた美術家集団(主にタケミヤ画廊や読売アンデパンダンを舞台に活動した)にまで続く前衛美術動向である。彼らは単純な欧米美術の模倣派ではないが、その活動が戦後のアヴァンギャルド芸術の流れに忠実に、未踏の表現領域を開拓するものであったのは確かである。また美術市場での価格評価は別として、戦後一貫して前衛派はジャーナリズムの寵児だった。若者たちを中心に、洋画と言えばすぐに〝前衛〟という言葉(概念)を思い浮かべる人は多いだろう。
しかし日本の前衛美術は再検討されるべき時期に差しかかっていると思う。『【特別論考】池袋モンパルナスについて』で書いたように、靉光らは当時の最先端美術であるシュルレアリスムに飛びついたが、その後、独自の表現領域を求めてその影響を脱している。それは瀧口に率いられた美術家集団にも言えることである。昭和五十四年(一九七九年)の瀧口の死去以降、タケミヤ画廊・読売アンデパンダン派の美術家集団は実質的に解体する。指導者を失ったから当然だとは言えるが、事はもう少し複雑だろう。
実も蓋もない言い方になるが、美術家たちは瀧口ほどには前衛美術について考えていなかった。言い換えればわたしたちは、かなりの部分、瀧口というフィルターを通して彼の周囲に集った美術家たちを見ていたのである。わたしたちは瀧口の前衛的、あるいはシュルレアリスム的な〝夢のフィルター〟を通して美術家たちを見ていたのであり、実体は異なっていたのかもしれないのである。画家たちは個々の実存に即した欲求に沿ってそれぞれの表現方法を開拓しただけであり、前衛という意識はあまりなかった可能性は十分ある。瀧口的夢のオブラートが潰えた瞬間に、彼らの芸術の魅力が色褪せ始めたのは確かである。
もう一つの流れは〝具象抽象派〟とでも呼ぶべき美術家たちの流れである。この動向は熊谷守一を嚆矢として始まると言ってよい。彼らは〝沈黙の画家たち〟でもある。前衛派のように美術を理論化することはほとんどせず、ひたすら絵を描くことで新たな表現を開拓しようとした。この具象抽象派について正確な考察を下すのは現時点では難しい。しかし熊谷以降、香月泰男、松田正平と、同じような絵の変遷を辿った画家は多い。彼らには最初から前衛の意識はなかった。具体物を詳細に観察し、それを絵画化しようとする際に独自の抽象化が起こるのである。松田は「(絵画は)具象と抽象と二つに、はっきり分けることはできません」と言ったが、その思考は熊谷らにも共通している。
『四国犬』 平成二年(一九九〇年)頃 油彩/カンヴァス 縦四五・五×横六五・二センチ 個人蔵
松田正平はアトリエに「犬馬難鬼魅易」(けんばむつかし きみやすし)と書いた自筆短冊を飾っていた。奇矯な鬼を描いて人を惹き付けるのは容易だが、平凡な犬や馬などで魅力のある絵を描くのは難しいといった意味である。この短冊は洲之内徹が譲り受け、それを白州正子がなかば〝強奪〟したことはよく知られている。『四国犬』はそのような松田の考えがよく表現された作品の一つである。
四国犬は中型犬だが狩猟犬で、気性が荒い。子供のような絵だが、松田はもちろん実際に見て描いている。そのフォルムを限界まで単純化し、複雑に重ねられた色を納得できるまで削ぎ落としている。松田は文字どおり〝削ぎ落とす〟画家だった。一九七〇年代の後半あたりから、松田はカンヴァスに剃刀を当てて、厚塗りした絵の具を削ぎ落とすようになった。『四国犬』も〝そぎ落とされた〟作品であり、完成までに様々な色や形が描かれていたことが朧にわかる。対象が持つ複雑な色と形を、その本質が掴めたと感じられるまで削ぎ落とすのが松田の画法だったのである。
『バラ』 昭和五八年(一九八三年)頃 油彩/カンヴァス 縦七三・〇×横五〇・三センチ 学習院女子大学蔵
薔薇というとすぐに晩年の梅原龍三郎作品が思い浮かぶが、松田の薔薇も梅原と同様に実に魅力的である。花入れになっている壺は李朝か。確かに具象画である。松田作品は日本を代表する洋画の一つである。松田正平の正統かつ正確な評価は始まったばかりである。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■