瓜南直子作品集『兎神国物語』3000円(税別)
遺稿集『絵画を生きて』2000円(税別)
瓜南直子の名前と作品はだいぶ前から記憶していた。初めて瓜南直子という文字を読んだとき、奇妙な苗字だなと思った。カナンは言うまでもなく『旧約聖書』に書かれた約束の土地である。『旧約』では豊饒な「乳と蜜の流れる地」と描写されている。神がアブラハムに与えた約束の土地だが、ユダヤ人はモーゼに率いられたエジプト脱出の後、世界中に離散(ディアスポラ)しながらカナンの地に帰ることを夢見た。ユダヤ人がカナンの地、つまり現在のイスラエルに自分たちの国を作ったのは一九四八年である。ユダヤ人は実に三千年以上の時間をかけてカナンの地を手に入れたのである。
僕は珍しい名前だなと思うとアナグラムで読み解く妙な癖がある。瓜南直子は〝カナンに直ぐの子〟ってことかと考えた。目出度くもあり、いささかの不安も感じさせる良い名前だなと思った。当然、本名だと思っていた。しかし遺稿集『絵画を生きて』の略歴を見ても〝瓜南〟という苗字は出てこない。もしかするとフリーライターや絵を描く時のペンネーム(雅名)だったのかもしれない。画家本人が瓜南の由来について書き残した文章もないようである。
絵は最初写真で見たのだが、油絵だとばかり思っていた。しばらく経って日本画であることに気づいた。かなりの厚塗りで、質感表現を大事にしている。多くの人と同様に、僕も有元利夫の影響を感じた。特に初期作品の赤(ベージュ)の色遣いは有元の影響を濃厚に感じさせる。有元が後進の画家たちに与えた影響は絶大であり、ほとんど有元チルドレンと呼べるような一群の画家たちを生み出している。
『伝言』 平成三年(一九九一年) 12変 岩絵具・ほか、麻布
ただ画家に限らず作家は多かれ少なかれ先人の仕事からヒントを得る。有元から影響を受けたからといって、どうということはない。ちょうどネット時代に入ったこともあり、瓜南さん自身がツイッターなどで公開する作品を目にする機会も増えた。次第に「これは、なにか違うな」と思い始めた。有元との本質的な類縁関係を感じさせる作家というのは、言い換えれば逃れようのないイメージに囚われた画家ということだ。瓜南さんもそのような画家の一人だった。
しかし有元が至福のエポケーに包まれた画家だったのに対し、瓜南さんの作品は孤独だ。生身のまま彼岸に至り着こうとしているような気配がある。『微笑む月』という作品では、池の上に張り出した木の枝の上で兎が眠っている。池には月が映り込んでいる。絵を見ながら「落ちるぞ、兎」と思ってしまう。もちろん兎は落ちてもいいのだ。むしろ落ちるべき存在なのかもしれない。兎は池で溺れて月の世界に吸い込まれるだろう。あるいは兎らしくない小さな耳と同様に、背中にある小さな羽が兎を飛翔させるのかもしれない。どちらでも同じことだ。瓜南直子はいわゆる日本画の系譜に連なる画家ではない。たまたま素材に日本画の画材を使った現代画家である。
『微笑む月』 平成十九年(二〇〇七年) 25変 岩絵具・ほか、麻布
瓜南直子は昭和三十年(一九五五年)に石川県鳳至郡穴水町に生まれた。父親は建設会社勤務の転勤族で、二歳の時に東京に、七歳の時に岡山県に転居している。十九歳の時に再び父の転勤で東京に戻り、一浪の後、東京藝術大学美術工芸科(鍛金専攻)に入学した。卒業後はスタイリストやフリーライターの仕事をしていたようである。二十七歳の時に大学時代の同級生と結婚したが、三十八歳の時に離婚している。遺稿集に収録された生前未発表のノートで瓜南は、
なぜ夫と結婚したのか。社会とのバランスをとってゆく、支柱として彼を置きたかったのかも知れない。すべての意味で中庸である人を支柱としていれば、そして、二人で、子供のようにじゃれていれば、わたしの内側は芽生(めぶ)かないと思っていた。でも、そんなことぐらいで殺せる内側ではなく、よけいに病状を悪化させていた。わたしは病気だ。立ち直ってリハビリをしようという気がない。まったくない。
(『絵画を生きて』より「ノートに書き綴られた文章」)
と書いている。遺稿集『絵画を生きて』を読むと、瓜南さんが自分でも抑えようのない欲動を抱えていた人だったことがわかる。瓜南は自分は不良女子高生だったと書いている。ロックバンドを組み、スケボーなどに興じ、大人になってからは酒場に入り浸って泥酔していたようだ。しかし一方で瓜南は、自己の内部に救う得体の知れない欲動をなんとか飼いならそうとしていた気配がある。結婚についても「中庸である人を支柱」とすれば「わたしの内側は芽生(めぶ)かないと思っていた」と書いている。
それは33の時だった。美大に進みはしたが、卒業後、膨大な設備の揃った鍛金の工房を持てるはずもなく、美術からは遠ざかっていた。呑むのに忙しく、10代の頃から続けていた詩や散文、小説なんかを書いてなんとなく自意識をおさえていた。
しかし、私にとっての文学の道はどこかにたどり着けるものでも、何かを積み上げてゆけるものではないとわかった。ただ、大学で専攻した立体の感覚と、イメージを言葉で紡ぐ習慣とがどうにもなじまない。じゃあ、絵、かな。絵なのかな。イラストのようなものしか描いたことないんだが、絵しかないのかもしれない。
そして、言葉を絵に置き換える作業が始まった。だから私は、初めに「絵ありき」なんかではない。たどりついたのが絵だったんだ。
(『絵画を生きて』より「絵を描き始めたころ-その1」)
瓜南さんはなんとか良い子でいようと試みながらも、定期的に自己の〝内側〟に巣食う激しい欲動を爆発させていたようだ。最初の大きな爆発は受験に失敗した十八歳の時だろう。当初瓜南は大学で歴史を勉強するつもりだったが、突如美術大学への進学を決心した。二度目は「絵を描き始めたころ」にあるように、三十三歳の時である。突然本格的に絵を描き始めたのだ。この頃瓜南さんは絵を描くためにアトリエを借り、旦那さんと半別居生活を始めたようだ。離婚前後の時期には恋人がいたようだが、瓜南さんの離婚は本質的には彼女が絵を描き始めたことで生じている。
絵を描き始めた頃から瓜南さんは住み処を鎌倉に移し、死去するまで鎌倉で仕事をした。平成二十四年(二〇一二年)四月頃、瓜南さんは体調を崩し、医者から余命一ヶ月の宣告を受けた。「最後のノート」(日記)の四月九日に、「もし体が健康で保てるのであれば、私は第三期としての再スタートを切りたいと思っている。家を維持するのは難しくなった。実家の2Fを仕事場に借り、制作に打ち込みたい。もう何もいらないので。まだ、やりのこしたことがあるんだ。描くことがあるんだ。絵の神様が、私を手放すはずはないんだ」と書いた。瓜南さんは六月四日に亡くなった。五十六歳だった。
鎌倉で交流があった人たちの文章を読むと、瓜南さんは明るく人なつっこい魅力的な人物だったようだ。しかし経済には無頓着で、体調を崩した時も健康保険が失効していて、友人たちのカンパでお金を工面して健康保険を復活させたらしい。しかしそれを知っていたのはごく数人の友人たちで、親兄弟はもちろん、付き合いがあった多くの友人たちにも経済的援助を求めなかったようだ。また身体の変調や余命宣告を受けたことをほとんど誰にも知らせなかった。そのため瓜南さんの死は多くの友人、知人に激しいショックを与えた。
瓜南さんは「孤児のような気持ちを味わっていた。ながい間、私ひとりが薄寒い現代にぽつんと生まれ落ちた気分でいた」と書いている。エセーはここから日本の古代的文化基層に自分の居場所を見つけたというふうに進むのだが、そこに他者の気配はない。それは瓜南直子ただ一人の世界だ。
言葉は言葉に過ぎない。芸術家と言っても自分が書いた言葉通りに生きる人は稀だ。芸術的雰囲気(アトモスフィア)に包まれた綺麗事ばかり並べる作家も少なくない。多くの友人に愛された生前の瓜南さんから、「孤児のような気持ち」を読み解くのは難しかっただろう。しかし彼女の思想は本物だった。瓜南直子はきっぱりと一人っきりの死を選んだ。彼女が生前に使っていた生活道具類は、遺言によりほとんどがフリーマーケットで売り払われたらしい。
『エーテル密造計画』 平成二十二年(二〇一〇年) 8M 岩絵具・ほか、麻布
『東風(TONG-POO)』 平成二十三年(二〇一一年) 15F 岩絵具・ほか、麻布
目を瞑ることと目を開くこと。瓜南直子の作品ではこの二つの所作が目立つ。目をつむれば存在は現実と非現実のあわいに存在する様々な動植物や怪異に包まれる。目をぱっちりと見開けば一人だ。汎神論的雰囲気は失われ、時に荒涼とした自然の中に一人たたずむ女の子の姿が描かれる。人物はいずれも画家の分身だろう。
瓜南は「描いているものは、今も初期の頃とそう変わらない。ただ、テーマと物質感をどう融合させるか、洗練させてゆくかを、この二十年やってきたような気がする」と書いている。瓜南作品は確かに初期から晩年までほとんど変化していない。一人の人物、あるいは一匹の兎、あるいは一つだけの花が描かれる。瓜南はこのような自己の作品世界を「兎神国」と呼んでいる。
兎神とは月。ここは月に護られた国である。ひのもと日本に寄りそうように、ひっそりと存在する国だ。日本のA面が、私たちの生きる現実社会だとすれば、B面の「兎神国」は、時を越えて生きる日本の精神を司る国である。きっといつかは、私もここに棲めると信じている。(中略)
私はいまだ旅人。南へ何里、西へ何里。いつか、この国に棲める日まで、月に護られるものになれるまで。記憶をつむぐように、地図をなぞるように、聞こえたものを見えたものを描く。
(『絵画を生きて』より「兎神国の国造り」)
僕は文章を書く画家や写真家があまり好きではない。とても乱暴な物言いだが画家や写真家の場合、文章の理知で精神を説き明かすと、ヴィジュアルでなければならない理由が損なわれてしまうように思う。しかし瓜南直子は数少ない例外の一人だろう。彼女の文章は遺稿集『絵画を生きて』で初めてまとめて読んだが、極めて頭のいい人だ。論理的思考に長けているという意味ではない。正しい直観に沿って知性がしなやかに伸びている。
これも奇妙な言い方かもしれないが、人間の知性はほんの一パーセントの直観によって導かれるものだと思う。この直観が誤っていれば、いくら勉強し努力しても知性は伸びない。画家や写真家だけではない。文筆家でも同じことである。瓜南さんは自分では矛盾と寄り道だらけの人生を歩んできたと感じていたようだが、彼女が内面に巣食うデーモニッシュな欲望を爆発させた際には常に正しい選択をしていると思う。三十三歳で絵を描き始め、心残りだったろうが、それでも画家として一定の成果を残し得たのは、瓜南さんが正しい直観に裏付けられた知性を持っていたからだと思う。彼女の知性が遅い出発を稔りあるものにしたのである。
これも異論があるだろうが、瓜南直子は決して上手い画家ではないと思う。画題や画法は限られている。独特の質感を生んでいる厚塗りも、あえて言えば技術的欠損を補うためのものでもあったように思う。瓜南さんより上手い画家はいくらでもいる。しかし瓜南さんの作品には見る人を惹き付ける何かがある。彼女はそれを「兎神国」の世界と名付けたわけだが、そこに明確な構造などはないだろう。「記憶をつむぐように、地図をなぞるように、聞こえたものを見えたものを描く」と書いた通りだと思う。知性が彼女を導いたが、絵は知性の先にある世界に属している。
『ムーンダンス』 平成二十三年(二〇一一年) 各50 岩絵具・ほか、麻布
『ムーンダンス』は「観○光」ART EXPO 2011のために描かれた大作である。この絵を見て、瓜南直子は変わり始めたなと感じた方は多いのではないかと思う。動きのある絵だというだけでなく、以前よりも厚塗りではなくなり、絵がすっきりとし始めている。瓜南さんは芸術は究極を言えば「自己救済」であると書いているが、主体を失った足たちは、エゴにまみれた作家の自我意識を離れて兎神国を歩き始めていたように思う。
電車が角を曲がるたびに、チラッと見える店が気になっていた。信号で停止している時に見ると、お城のような自動車や、大きな花輪、そして淡くきれいな色合いの花飾りが見えた。それは、華やかなデパートの飾りとは全く違う色合いの花飾りだった。(中略)
ある時、外にある金網の大きなカゴに、あの花飾りが入っているのを見た。ひょっとしてこれは、捨ててあるんじゃないか?(中略)奥から背の高いお兄さんが出てきて、カゴから花飾りをゴソッと出してくれた。ただ、鳩や蓮はみな針金で繋げられたままだったので仕方なく、そのままズルズル引きずって家まで帰った。(中略)
飾り終えて、夢見心地でいるところに、血相を変えた母親が帰ってきた。私が飾り物を引きずって、商店街を歩いているのを見かけた人の話が耳に入ったらしい。
「すぐに返してきなさい」
どうしていけないの。
「それは、葬儀屋のものです」
でも、もらったんだもの、きれいだもの、すっと欲しかったんだもの-、と必死の抵抗を試みる。
お葬式で使うものがきれい、と言う気持ちがわからない、と言って母は青ざめている。そして、返しなさい、返したくない、の応酬に、説得する言葉を探しあぐねた母は、父の帰りを待った。(中略)
翌日、母に連れられて飾りを返しに行った。それからピアノのお稽古に行き、ケーキ屋さんでエクレアを買って、家に帰ってみると、部屋は線香の匂いがした。
しばらくの間、匂いは消えなかった。居心地の悪い気持ちはどこかに残っていたが、やがて日光写真や水晶探しに夢中になり、あの砂糖菓子のような花飾りのことはいつしか忘れていった。
覗いた瓶の底に沈んでいたものに呼ばれることはなかったが、銀と白、そして少し緑がかった淡い淡い水色の、あのはかない色合わせは、今も私の基調の一つになっている。
(『絵画を生きて』より「禁断の砂糖菓子」)
「禁断の砂糖菓子」は瓜南直子が子供の頃を回想したエセーだが、これほど優れたエセーは久しぶりに読んだ。こんなエセーを書けたら本望だと思う文筆家は多いだろう。瓜南直子は画家としてだけでなく、「禁断の砂糖菓子」一本で著述家としても長く人々の記憶に残るだろう。
『月化粧』 平成二十四年(二〇一二年) 2変 岩絵具・ほか、麻布
『月化粧』は最晩年の作で、ガラス状のドームの中の蓮が描かれている。空には月、これも兎神国の風景だろう。瓜南直子の思想は一環している。この作品は彼女が「銀と白、そして少し緑がかった淡い淡い水色の、あのはかない色合わせは、今も私の基調の一つになっている」と書いた通りである。
「死んだ人間は、どうしてあんなに輪廓がはっきりしているのだろう」と小林秀雄は書いた。それはついこの間まで生きて活動していた瓜南直子にも言える。批評を書くにしても、生きている画家と物故した画家では自ずから書き方が変わってしまう。彼女は遠いところへ行ってしまった。絵画史の中の人になってしまった。
僕は瓜南さんとは面識がない。まだ若いので、そのうち個展会場などで会う機会があるだろうと思っていた。わずか一点、木の上で兎が眠る絵を持っているだけだ。こういった形で瓜南さんの作品について書くのは残念だ。ただ瓜南さんが残した作品は、これからますます多くの人に愛されるだろうと思う。
鶴山裕司
■観○光2011 泉涌寺 瓜南直子■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■