重松清の新連載「アゲイン」が始まっている。
子育て世代にとって、重松清というのは無視できない作家だ。否応なく読まされる、だけでなく否応なく子供に読ませねばならないらしい。中学入試の頻出だからだ。すなわち売り上げの見込める作家ということにもなろう。作品の出来不出来、評判に関わらずと言ったら申し訳ないが、入試に出題されるのは、必ずしもそれが佳作だからとはかぎるまい。
中学入試に出題されるのは、何よりもその年頃向けに問題が作りやすいことが条件だろう。教育の一環であることを強調するには、主人公、少なくとも主要な登場人物の一人が子供であること。しかしながら難問をこしらえるには、子供が皆、子供であることですんなり理解できてしまえるシチュエーションでは困るに違いない。
子供は変化する動物だ。小説において、大人との決定的な違いはその可塑性にある。子供を主体とする小説はすべて多かれ少なかれ、成長物語だ。子供が子供でいられなくなる状況に遭遇する。成長物語とはそういうものだが、重松清の短編作品はその状況のバリエーションをさまざまに展開する。入試というのはよくも悪くも、子供の集団の中から一歩でも二歩でも大人に近づいた者を選ぶシステムだ。物語の登場人物の直面する状況を理解し、進むべきと示唆されている成長過程を察知できる子を見分けるのに、重松清作品は便利ではあろう。
だが成長のバリエーションを水平方向に広げるのも、親の不倫まで辿りつくと行き止まりだ。次には垂直方向に、子供の視点から親の視点に切り替える他はない。
重松清作品は、おそらくしばらく前から、このような視点の上下移動や交錯によって複雑化していたのだろう。それは子供にとっては「難問化」ということになる。子供らしい子供にとって最も難解なのは、一見、子供が主人公でありながら、その子を見下ろす大人目線で書かれたエッセイなどであるからだ。
今回の新連載「アゲイン」は、かつての高校球児たちによる「マスターズ甲子園」を描くという。野球というテーマもまた中学入試ではお馴染みらしいが、それもやはり、すでに大人のものに切り替わっている。が、大人目線を前提としても、読み進めるうちに妙な違和感があった。最初の一章の終わりに、やっとわかった。その視点は単に娘を見下ろす大人=父のものではなく、すでに死者となった大人=父のものなのだ。
子供と大人の間での視点の振れ幅に対して、生者と死者との間、すなわち地上と天上との間を振れる視点変化は大きく、不自然とも言えるもので、2章以降にも主人公の呼び名などに違和感が残る。こういった視点の大きな移動には、それに見合うテーマの大きさがなくてはならないのではないか。連載が始まったばかりの、この作品の可否はたぶん、その一点にかかっている。
「アゲイン」の主人公の男性は、津波に流されて死んだという。死んでもこうして視点を保っている以上、死に方が時事的なのは瑣末なことにしかなり得ないと思う。大きな社会事象をも巻き込み、生死の境を踏み越え、なおそれに堪えるテーマを抱えているか、ということにしか問われないだろう。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■