「8 パーセントのその前に」というエッセイ特集に、笑ってしまう。消費税の 3 パーセントの値上げが私たちにもたらす意味は、ということだ。特に文学的にと限定しなくても、なかなか難しい。
全体を読むと、何となく特に影響はないようだ、という結論めいたものに到達してしまう。それでは為政者の思うがままで、ブンガクはそれに抵抗しなくてはならないのでは、と思うが、正直なところ、カエサルのものはカエサルに、という気分に陥るしかない。
経済はもちろん、文学にも影響を与える。ジャーナリズムのあり方は当然だが、近代文学とはモダンのことで、モダンとは産業革命以降のことだ。批判するなら、労働者として搾取されたことを論じるわけだが、同時にそれは人をある程度は自由にもした。文学と深く関わるのは、自由のあり方である。金銭は計算できるので、そのぶん自由になる可能性が生まれる。文学と経済の関わり合いは、本当のところはここにしかない。
とすれば、消費税の 3 パーセントの値上げが、我々の自由度にどう影響するか、しか文芸誌では書きようがない。計算するなら、我々の自由度が 3 パーセントだけ削れるということになる。では、しかし 3 パーセントの自由度とは何か。
憲法を見ると、自由にはいくつかのフェーズがある。精神的自由、そこに含まれる信仰の自由、学問の自由、表現の自由。経済的自由に含まれる職業選択の自由、移動の自由、営業活動の自由。経済的自由には、程度に応じて足かせをはめることができる。公共の福祉のため、というやつだ。
そしてもちろん、保証された人権としての自由とは別に、納税の義務はある。基本的人権は人として保証されているが、納税の義務は国民として課せられているものだ。「人」と「国民」、これは同じ一人の人間を異なる範疇で捉えている。こういう「審級の異なる」ステージですり替えが起きて、文芸ジャーナリズムは混乱してきた。曰く、「餓えた子供の前で文学は可能か」であるとか、男性に迫害される女性の登場人物を描くことが「女性蔑視」であるとか。
そこからすると「8 パーセントのその前に」という特集は罪がなく、それ以上に、そういう混乱の根元を指し示す効果すらあると思える。何となく歯切れの悪いエッセイの数々は、狙いに反して(あるいは狙い通りに)、本当のところ、あんまし関係ねーな、と吐露してしまっているからだ。
自由には様々なフェーズがあり、それらは互いに完全に無関係ではないものの、それぞれ独立している。各種の自由について、自由か自由でないか、二つに一つだ。自由度とは、どの種の自由を手にしているか、ということに過ぎず、3 パーセント分の自由度が増したり減ったりすることはない。
そして手にした自由を自覚し、謳歌できるかどうかは本人の意識にかかっている。3 パーセント値上げされたら、買わないという自由がある。それがより貧しくなることかどうかも、本人次第。文学という個を基準にするものからしたら、それしか言いようはない。それによって落ちる売り上げと、できる数兆円の財源をどう使うか、というマスにしか問題はないのだ。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■