「時代小説 花吹雪」という特集で、山本一力が「マックでよい」という新連載を始めている。1848年、鯨を追ってやってきたアメリカ人青年が鯨を追い、鎖国の日本への上陸を目指す、という時代小説だ。
時代小説だ、と言ったものの、あ、これも時代小説なんだ、と思ったというのが本当だ。時代小説というと、たいてい日本の社会に起きたこと、外部から与えられた波風、それによる人心の揺らぎなどを描くものと相場が決まっている。もちろん、すべて史実である必要はないし、誰もそれを期待もしていないが、日本の社会や文化や人心のあり様の本質をどこかで突いている、少なくとも突こうと試みている、というのがジャンルの掟というものだ。
そこへきて、カタカナだらけのこの「時代小説」はちょっと虚をつかれる。しかしアプローチとしては、ありだ。宣教師など外国人から見た歴史上の日本というのなら今までにもあって、その目で権力者の姿を描くというのが主眼となる。民草にとっては謎である権力者を、外国人の視線に晒すということだ。
この小説も、進むにつれてそうなってゆくのかもしれないが、むしろそうなる前、特権を持たず、囲い込まれもしない状態で「日本」にアプローチしてゆく場面に、新しい可能性がありはしないか、と思う。なぜならそれは日本人である私たちが「日本」を見い出すときと、存外に変わらないからだ。
私たちが見い出す「日本」とは、私たちが見い出す異国でもある。それは散りばめられたカタカナそのもので、異国への驚きであり、異国そのものであり、同時に紛れもない日本語だ。異国の人の目で見られた情景とされているそれが日本語で、それも異国への憧れを表す文字によって綴られている。そのことを考えると、最初からフィクションだとか、そもそもまがい物なのだと言ってしまっていいものか、躊躇する。
フィクションとは、物語の結構のことを言うのであって、私たち日本人であるかぎり、母国語そのものがフィクショナルなものとして扱われてよいわけがない。母国語の成立の拠ってきたるところは、常に厳然たるもの、大前提としてあるのが小説というものだ。例外なのは、それこそ異国との遭遇によって状況と精神のすべてが揺らいだ明治期の、口語体への移行期だけだ。現在において、なおかつそれを揺るがすなら、それは小説ではなく、詩と呼ばれなくてはならない。
そしてまた結構を含め、登場人物の設定も、そもそも何もかもがまがい物なのだから、という説得のあり様は、当該作品のみならず時代小説というジャンル自体の存在理由を失うことに繋がる。時代設定は、でたらめを思いつくための手がかりに過ぎない、などということがあってはならない。時代小説を書くからには、その時代でなくては表現できないことがあるわけで、ならば登場人物も、女でなくては、少年でなければ、外国人でなければならない理由があるはずだ。魅力的な登場人物とは、カタカナのような驚きだけでは最後まで保たない。作者の意図を負っているゆえに魅力があるはずなのだ。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■