大崎梢「空色の小鳥」の連載が始まっている。家族サスペンスという設定で、緊張感がある。家族ものというと、ファミリービジネスなどとして、ミステリーとしてはまともに扱われない、というのが日本のエンタテインメント業界では長かったように思う。が、最近はずいぶんと様子が違ってきたようだ。
まず本を読むのが女性である、という認識がやっと定着したことによる。そんな調査結果はとうに出ていただろうが、なかなか受け入れられなかったのはどうしてだろう。
情報化社会は仕事の効率を高め、逆に言えば、情報量がビジネスに直結するようになった。そんななかでビジネスにおいて大量の情報を消費している男性が、一概に本を読まない、などと決めつけられない、ということだったのではないか。
しかし情報を得る、消費するという観点からは、読書は最も迂遠な方法だ。とりわけ文学は、エンタテインメントであれ純文学であれ、昨日得た知識が今日使えるわけではない。むしろ十年後に身に沁みるようになることを読んでおき、あるいは数年前の体験についての解釈を発見して驚く、というのがその醍醐味だ。ビジネスに直結する読書が世界を少しでも拡げようとするものであるのに対し、文学は世界を総括し、場合によっては見切り、ときには別世界へ誘うものである。
家族は小さな世界なので、日々ビジネスに勤しんでいる男たちにしてみれば、大量の原稿を読むことを仕事にしている男性編集者も含めて、拡大する世界の大きさに見合わない、と思ってしまうのかもしれない。しかし、その大きな世界を誇ったところで、それぞれの男たちはその歯車に過ぎない。断片であることに甘んじながら、いっぱいいっぱいで広い世界とやらに目を剥き、隅っこにしがみついているだけである。
情報によって肥大化はしたものの、拡散した社会に、もはや謎はない。そこでのミステリーとは、卑小化した個人の目に入らない、漠然とした世界の大きさ、という以上のものではない。謎は常に外部にあり、到達したところで本質にたどり着いたという達成感は得られない。ただ、そんなものからすら疎外されていた我が身の小ささを思うだけだ。
そういうミステリーは、ミステリーではあってもサスペンスという点では劣るだろう。サスペンスとは宙吊り状態の意で、読者がその運命を我がことのように感じなくてはならない。誰もが自分のビジネス以外、興味がなくなっているような今日、登場人物の運命の行く末を一緒にたどる、といったことが期待できる可能性は狭まっている。それはほとんど、ファミリービジネスと呼ばれるもの以外、難しいかもしれない。
家族小説の特徴は、すべての謎の答えが自分たちの内部にある、ということだ。出来事を積み上げて謎解きをするという定型的なミステリー(本格?)の手法もアイデアもまた、ほぼ出揃い、つまりは尽きたようにも思える。ならば謎のありかは足元、すなわちおウチにしかないことになる。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■