「特別対談」にしてはごく短いものだが、トラベルミステリーで知られる西村京太郎と、『駅物語』の著者である朱野帰子が「駅と人と小説と」について語り合っている。
旅、駅、鉄道はしかし、それぞれ小説で果たす役割、またそれぞれを主眼とする小説の雰囲気も、まったく異なる。それぞれに別の種類の小説ができる、と言うべきだろう。
小説とは、そもそも空間的なものだ。空間を移動するという要素がないと、場面転換が難しくなり、長くは書けない。さらに長編小説にするには、三人称で視点を複数にする場合が多いのだが、視点が別人のものになれば見える光景が変わってくる。小説とはつまり、広い意味での空間操作によって創り上げるものだ。
だから、ただ旅しているだけでも、そこでの困難や人との出会いを織り交ぜていけば、最低限の物語にはなる。旅の目的、到達点が観念とか思想の象徴、または世界を救うような大目的であれば、たとえば「孫悟空」、「指輪物語」、あるいは「宇宙戦艦ヤマト」みたいな作品になることになる。旅を背景として、ともに旅する者たちの関係性を中心としたドラマとしてなら、ミステリーでも恋愛小説でも可能だ。テレビの「湯けむり殺人事件」とか、なんとか坂とか、ようは背景を変えるためのロケ、ということである。
一方で駅というものは、旅の里程標であって、それ自体はじっとしている。行く者と帰る者、行き過ぎていく者を見守る場なので、彼岸も含めた遥かな場所への志向はあっても、留まる場所である。浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」は北国のローカル線の駅長の話だ。職務にあくまで「留まる」男が日本人の心の琴線に触れるわけであるが、「移動」する物語とは質が違う。駅というのはそもそも、どこも似たような佇まいだ。職務に忠実な日本の男が、皆同じくお父さんに似ているように。
今や最も可能性が尽きたかのように見え、それでいて、だからこそ考えてみると面白いかもしれないと思われるのは、鉄道や時刻表といったものだ。対談もまた「鉄」というものについて、緩やかにめぐっている。もう少し突っ込んだ話が出てもよいとは思ったが、書くための道具としては、この時代、ちょっと難しく感じることは確かだ。時刻表の代わりにネットの乗り換え案内があり、そうでなくても乗り換えのトリックが使い果たされ、新幹線があちこち開通し、という状況だと、密やかな移動によって人知れず思いもよらぬ駅に降り立つ、というミステリアスな事態はリアリティを失いつつある。
しかし、それでもあえてもう一度、可能性を検証してみたい、と思わせるものがあるのだから、鉄道というのはよくよく文学と相性がいいのだろう。どこまでも伸びる線路、その重なり合いや分岐は、人の時間を抽象化し、出来事を過ぎ行かせ、相対化する。しかし同時に、「鉄」に「乗る」とは、人の肉体の体験そのものだ。社会が変容し、ネットによる抽象化や相対化がどれほど進んだところで、情報では人は殺せないのだから。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■