「作家の万年筆」という特集がある。北方謙三が「俺と万年筆」について写真満載で開陳し、なんとなくクレジットカード会社の会報誌めいているのが可笑しい。どうせならバーンと全面的なタイアップ広告を数ページに渡ってデカデカ載せればいいのに、なんだか寂しいというか、物足りない。と言うより、落とし所がよく見えなくて心細くなる。
特集には他に、津村記久子が「字を書く楽しみ」を、井上都が「父・井上ひさしの万年筆」を寄稿し、さらにコラム「文豪と万年筆」、「万年筆ライフのススメ」と続く。ここまで万年筆オシというのは、通常はめいっぱいタイアップ広告でなければ、あり得ない。あり得ないことが起きるのが文芸誌、資本主義の原理に背くのが文学、ということだとすると、それはまた別種の幻想を売っていることになる。
幻想を売るのはしかし、必ずしも悪くない。言葉を替えれば、夢を売るということだし、芸能人などは典型的な夢を売る商売で、無理をしてでも高級品を身に纏わなくてはならない、ということもある。それは虚偽でも虚勢でもなく、職業倫理だ。
文筆家もまた夢を売るわけだが、それは主として作品のかたちをしたもののはずだった。さもなければ、覆面作家など成立しない。もっとも「覆面」そのものを幻想として売る、という方法もある。だがもちろん、幻想を引っ張り続けて作品を読み続けてくれるほど、現代の読者は暇ではない。
その暇でないはずの読者に向けて、「万年筆」といったモノを縁として文学的アトモスフィアを売る、ということの狙いが、今ひとつわからない。わからせてほしいというモヤモヤ感が、どでかいタイアップ広告の掲載をむしろ熱望させてしまう、ということか。そんなことで安心なんかさせない、という姿勢が文芸誌らしい、とするべきか。
結婚詐欺で殺人を犯したとして逮捕、一審・二審で死刑判決を受けた30代女性のブログは、セレブ感を醸し出すためのモノの名で溢れていた。ネット上にそんな自慢たらたらブログは掃いて捨てるほどあるが、奇異に見えるほどのイッちゃった感は、自称「大学院生」という肩書きを、そこに羅列されたモノのセレブ感で再定義しようとしたことだ。
日々、研究に勤しんでいる本当の大学院生なら、その生活がセレブ感で規定されるなど、びっくり仰天する。ようは大学院に進もうとする子弟が比較的裕福、少なくとも明日の食べ物に困るなら進学はしないだろう、という一般常識を逆転させたに過ぎない。そして現実には多い苦学生の実情みたいなものを、引っかかってきたカモには都合よくちらつかせて資金を引っ張った、ということだ。
著者の全部が万年筆で書き、データ入稿が不能になれば、どこの編集部も食い詰める。そのような実情、台所事情をおいて、「万年筆」のセレブな文学的アトモスフィアをこれでもかと醸すのは、あのブログ「かなえキッチン」に似ている。しかしそれは別に、非難されることではない。変態的な詐欺ブログの振る舞いは、へたな小説よりよほど面白い。恐らくは小説すばる今号に、万年筆で書かれたどんな作品よりも。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■