山田風太郎の特集である。その中で森村誠一がエッセイを寄せていて、「やはり野におけ風太郎」という一節が印象的であった。文意は、ドラマや映画などの映像化ということについては山田風太郎作品はあまり相性がよくないといったことだ。テキストとして放置して摘み上げないことをもって、野におく、と言っている。
しかし、どうして山田風太郎作品は映像化しづらいのだろう。これだけ面白い原作が求められている中で、奇想天外なことが起きる風太郎作品であっても、コンピュータでの映像化にさほど問題はないはずだ。ジャンルをまたいだエンタテイメント作品を数多く書き、晩年、執筆が困難になってもまだアイディアが溢れていた山田風太郎を「野におく」のは、映像関係者には惜しく思われないだろうか。
一方で、山田風太郎という作家の知名度というか、作家としての一般的なイメージがそれほど浸透しているとはいえないのは、映像化で成功しづらいせいだろうか、とも思う。ヒットした映画、話題となったドラマがあれば、確かに作家の名はたいへん広まる。山田風太郎は、エンタテイメント文学業界ではその名を冠した賞もあり、非常なビッグネームなのだが、たとえば江戸川乱歩とは違う。
江戸川乱歩は私たちの間で、確実に一つのイメージを結ぶ。文学者としてのその「像」は、結局のところ人間としての業、深い病いからもたらされる。さまざまな作品があり、中には明るい、軽妙なものだってあるが、すべては「存在する人」の業の重みから派生している。どんな人だって陽気な瞬間はあり、冗談くらい言う。
業だの病いだのは、作品に対して端的にはどう表れるかといえば、欲望のあり様として具現化される。どんな奇妙な発想であれ、それを書き上げようとするエネルギーは、その作家固有の欲望から生み出される。その欲望を感知したとき、その欲望は人の形をとって、読者にイメージをもたらすのだ。
映像が原作に求めるものは、このような重みのある、人の形をした欲望としての「像」なのではないか。映像はいくらでも像(イメージ)を作り出せるが、だからこそ、そこに像を生み出す核となる重み、欲望の原風景を必要とする。たとえば江戸川乱歩の胎内回帰への欲望は、説明のつかないものであり、すなわちそれは問答無用の核なのであって、それを中心に映像を組み上げることができる。
それというのも、映像の「像」は本来的に空虚なものだからだ。カメラを廻しながら放置したって映像は撮れる。だからこそ映像は、そこに作家固有の重みからくる文法を求めるのだ。
江戸川乱歩と同じ命日であるという山田風太郎は、その生い立ちや戦争体験から独特の虚無を抱え、それが「風」太郎の名となってもいる。つまりは戦後作家の一人である。数多くの奇想天外な発想は、何一つ信じない、つまりは何にもとらわれない虚無感からもたらされている。これもある種の戦後思想であろうし、そのあり方を突きとめれば、あるいはすばらしい映像作品もできるのではないか。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■