なぜか尾崎豊の特集号である。自筆のノートが出てきたから、ということらしいが、それがなんで小説新潮に載るのかはわからない。
わからないけれども、資料としてはなかなか見ごたえがある。手書きのまま写真に撮られた横書きのノートを再現すべく、裏表紙から逆に繰って見るようになっている。最初、目次での4ページとか9ページとかの表記通りに捜して、とまどった。裏表紙から4ページ目ということらしい。
肉筆のノートはとても個人的な感触のものだし、ファンにとってはたまたま縁者から見せてもらったかのような気がするかもしれない。だけど物わかりの悪い僕が、あいかわらずわからないのは、そういう尾崎のファンと、小説新潮の読者がどこで重なるのか、っていうことだ。
二つの編集後記を見ると、編集者が尾崎のファンみたいなことが書かれている。でももちろん、そんなことで特集が組まれるはずもない。彼らには、自分たちの読者は尾崎のファンでもあるはずだという確信があるのか、それがわかるようにしてもらいたかった。なぜなら雑誌は前と後ろと、両方から繰るようになっているわけだが、内容的にも真っ二つに割れているように見える。思い切った試みと見るか、単なる変な体裁としか見えないかは、小説新潮編集部としての意図や狙いが伝わるかどうかの一点にかかっている。
それで、後ろから繰る数ページを占めているだけの尾崎豊が (まあ、当然のことだが) どーんと表に、表紙になってるわけで。で、前からページをめくると、いつもの連載小説とか、エッセイとかが載ってるわけ。尾崎とは何の関係もなく。
こういうさ、物わかりの悪いガキが文句たれてるみたいな物言いって、なんなんだ、とか思われてもしかたない。だけど尾崎豊って、そーゆー奴だったんだぜ。尾崎が見たら、思わないかな。「なんで小説新潮なんだよ」って。そしたら教えてやったらいい。「ここでオジさんオバさんたちが頭を捻って書いてる物語のどれより、お前の人生が小説的だからだ」って。お前は今回、小説の登場人物として表紙になってるんだ、って。お前のが一番傑作だってさ。だってペンでもワープロでもなく、肉体で書かれた小説を生きたんだから。それは出来事の順番としては逆さまで、だから逆からページを繰るようになってる。
れとも、小説新潮の読者が尾崎ファンかどうかなどとゴチャゴチャ考えず、その号だけでも話題になって少し余分に売れればいいというぐらい、かつての尾崎のファンもオトナになったってことなんだろうか。
それでも表紙の尾崎は若いままだし、ノートの中身だってやっぱり成熟を拒否している。新潮社は大会社じゃないんだから、単行本に先立っての特集ってことに過ぎないなら、今回の肉筆ノートの掲載は、純文学誌の新潮に譲った方が、まだしもしっくりきたんじゃないか。だって物わかりも要領も悪い、若さの「純」が商品化されちゃったことこそが尾崎豊の悲劇だったんだからさ。
水野翼
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