特集は「最後の恋」。筆者は朝井リョウ、伊坂幸太郎、石田衣良、荻原浩、越谷オサム、橋本紡と、全員男性である。
編集後記には、男は過去の相手に未練を残しがちであり、したがって「恋愛小説を求める根源的な欲求は、男性の方にこそあるようにも思うのだが、現代日本では、恋愛小説の読者は圧倒的に女性が多い」とあるが、やはりそれには異論がある。
女はぎりぎりまで我慢しているのだ、と思う。相手をある意味、しゃぶりつくし、見切った後でなければ別れない。したがって「過去の相手」になってしまったら、もう思い残すことなどないのだ。そいつが「過去」にならざるを得なかった理由は、はっきりしているんだから。
過去の相手にいまだロマンを感じられる分、男は甘いのだ。それゆえ恋愛小説を必要としないわけで、経済的でもある。根源的に恋愛小説を必要とするのは、やはり女なので、それも現実の男たちをどいつもこいつも、と思うからに他ならない。女たちの現実への幻滅と恋愛小説への需要が表裏一体なのは、源氏物語の昔からそうだ。
しかしながら「最後の恋」となると確かに、男の独壇場かもしれない。女はしぶとく自分自身に対しては、「これが最後」なんて見切り方はしない。つまりこの特集のポイントは「恋」ではなく「最後」にある。男性作家たちがどのような解釈、技術でもって、「最後」という思い詰めのテンションを上げてみせるか。
石田衣良は「イルカの恋」で、「最後」を「最終的な」、すなわち「現世における究極の不可能性」に置き換える。それは一つの正しい解だ。男女でなく、男男の不可能な関係。男を失い、心をなくした男への女主人公の報われない恋。このようなテーマのすり替えはずるく、上手い。
伊坂幸太郎「僕の舟」はいっとう真っ当に「最後」に応えている。七十手前の女が、かつて接触のあった男、それと幼い初恋の男の子の正体とその現在について調査を依頼する。結局は最初も最後もない、というオチにはちょっぴりの悪意があっていい。正体を知りたがるロマンは男のものだろうが、女は自分が手放したチャンスがたいしたものでなかった、という確認はしたがる。
登場人物たちが若ければ、「最後の恋」は「恋の最後」にすり替えざるを得ない。橋本紡「桜に小禽」は同棲生活の最後を描いている。だが、それがどうして終わりを迎えるのか。前述の通り、女はこんな思いを残しそうな別れ方は、まずしない。よくわからない別れだったと男が思っているだけで、女はきっぱり見切っているはずだ。それでも男の表情の描写、妙に親密な別れの準備の様子など、なかなか魅力的な作品だ。
萩原浩「エンドロールは最後まで」では、まだ何も終わっていない。詐欺師なのかまともなのか、この男を見極めてやろうという女の決意表明がある。こんな「恋の最後」はろくなものではないに決まってる。それでもそうせざるを得ない。荻原せんせ、女というものをとてもよくご存じです。ただ、こういう「現実」そのままの小説は、女にはちょっとうんざりでございます。男たちに対する教育用としていただくのがよいかと存じます。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■