町山智浩の『トラウマ恋愛映画入門』刊行記念として「世界は映画でできている」という特集が組まれている。樋口毅宏、川本三郎との対談が二本に、特別寄稿として「地獄のアメリカ道中記 ディア・ハンター」が掲載されているが、これには「すべてフィクションであり、実在の人物・団体とは…」という例の注が末尾に入っている。
「世界は映画でできている」というのもまた、小説誌としては自己否定的ではある。世界が現象することに終始している、という意味なら、文学は存在しないも同然だからだ。が、映画の見方も含めて映画だというなら、確かにそうかもしれない。そのときには小説とは、映画の原作である、という定義になるだろうが。
そもそも、現象していることへの解釈と文脈の引き方によって、文学は生まれている。「地獄のアメリカ道中記」は、そういったことを思い出させる。私たちにとって、アメリカとはアメリカ映画、もしくはハリウッド映画の中の存在である、と言えば狭きに陥るか。しかしその距離感は、所詮は映画の中にある、ということにならないか。
アメリカを訪れたとして、そこで受ける疎外感も、あるいは与えられる親近感も、スクリーンを隔てている、と考えれば納得がいく。日本を訪れている外国人に対して、私たちが所詮はここまでと、どこかで距離をおいているのと同じことだ。町山智浩は、そこに非常に敏感だと思う。
だから、アメリカを訪れる私たちにとって KKK とは記号なのであるが、それは態度の決定を強要されない、ということと同値でもある。好むと好まざるとに関わらず、コミットさせられてしまう事象というものはある。そしてそれはやはり国家や政治、民族といったことと無縁にはあり得ないのだ。
映画を「表層」と見なそうとするのは、したがって一つの選択された「態度」である。映画とは確かに、それを可能にする装置である。が、それによって「映画」を定義するかどうかは、また別の問題だ。
映画はかつてはしばしば国策そのものであったし、今だって隠微な、あるいはあからさまな形で政治的に利用されている。ならばあらゆる映画の表層に対してむしろ、政治的な「意味」を読み込もうとする「態度」を選択することも可能だ。このときには映画は「深さ」を呼び込む装置となり得る。
「表層」の広さ、「意味」の深度を自在に設定することで、映画はなるほど世界を覆い尽くすし、そのとき「世界は映画でできている」。そしてその選択された「態度」こそが「文学」であるということになる。
文学が映画に与えられるもの、原作となる小説が映像化されるときに具現化するものとは、一貫した「態度」であるはずだ。しかし小説誌が映画をしばしば取り上げ、雑誌自体を映像化せんとするぐらいの勢いのとき、文学はそこから何を得ようとしているのだろうか。時代とともに、それは露わとなってくるのだろうか。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■