「文芸誌時評」とは何ぞや、という根源に立ち帰ろうではないか、とレビューアーの間でプチブームになっている。「文芸誌時評」とは、文芸誌の各号を一冊の書物として見た書評的視座を、どことなく持っているものである、と。
もちろん文学金魚の「文芸誌時評」では、その号の一作品だけを取り上げたレビューも数多くある。が、「文壇」を前提に、当該の文芸誌が「文壇」のパーツとして、その作品をたまたま載せている、という捉え方はしていない、確かに。
ただ、それぞれの雑誌がマーケティングとして、あるいは文壇内での立ち位置の確保として「カラー」を打ち出し、なんとなくそれに沿った作品が集まっている、ということは文芸誌の事情として総論に書かれている。しかしレビューは総論とは違い、読む側の立場に立つ。作品を読む側にとっては、たとえ各文芸誌の事情を察していたとしても、それは最後のところは関係ない。むしろその号にしか載っていない、その作品がその号の文芸誌という書物のあり方を規定しているものとして読むだろう。手にとった「物」としての書物は、あらゆる事情に先行する。
今号の小説NON については、原稿用紙仕様のグラビアで「柿の種」という百字のエッセイがある。柿の種からは芽も出ない、不毛であるが、柿の種と同じ顔をした三日月が憐れみ、ビールのお供に欠かせないものにした、といった、いくぶん詩的なものだ。
これを単なる飾りとしてでなく、掲げられたある観念、雑誌のヴィジョンとして読むと、不思議なことに、掲載されている作品全部が「柿の種」に見えてくるのだ。すなわち不毛な感じ、しかしビールでも片手に読めば、確かに人生に愉しみを与えてくれる。それは重要なことではないか。
「赤々と燃える紅葉を愛でて! 好評レギュラー陣」という意味不明なコピーも、言語の内実としては不毛ではある。形骸化した季節への挨拶は、ただ、文芸誌が月ごとに、つまり季節をめぐって出されるというルーチンが「レギュラー」陣に結びついたに過ぎない。
そしてもちろん、柿の種はそもそもビールのお供に創り出されたものなのであって、「不毛だからその役割を与えてもらったと」いうのは論理が逆転している。ひまわりの種などと違い、もともと無生物なものを生物に擬えたのだ。
これは小説なら、自然主義的なモデル小説と、完全なフィクションに楽しめる範囲でリアリティを与えようとした小説ぐらいには違うかもしれない。小説 NON 誌の差別化も「ベストセラーをいち早くキャッチ!」という、ある種の論理、もしくは時間軸の逆転を思わせるものだ。
ところで、総合文学ウェブ情報誌たる文学金魚は、「金魚屋プレス日本版の文芸誌」という位置づけだそうだが…。これはずーっと毎日、書き続けられつつある「一冊の書物」らしい。
池田浩
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