エドガー・アラン・ポーを源とした「幻視者の系譜」という特集である。エドガー・アラン・ポーは「ゴシックと呼ばれる幻想小説の書き手」であり、「推理小説の始祖」であり、その幻想小説は「その後のSFやホラーを先取りしている感がある」ということだ。
言われてみればすごいことで、これらの多様なジャンルの始祖のようにみえる作品群とはすなわち、どういうジャンル分けにも適合しないものだったわけだ。
Twitter などで文学金魚と交流が始まっている読者、金魚屋ファンとできれば呼ばせてもらいたい作家の卵たちは皆、自身の作品について「恋愛小説を書いています」なり「ファンタジイです」なり、あるいは「妖怪小説です」といった自己申告をきちんとしていることが多い。これは考えてみれば、ずいぶん成熟した意識だと思う。一昔前の文学青年、物書き少女の多くは、心惹かれる作家をお手本にしたつもりで、似ても似つかぬものをゴニョゴニョしたためつつ、だいたい二十代の全部を過ごしていたのではないか。
それに比べると、ネット上に見受けられるアマチュアおよびセミプロの若い(若くなくてもいいが)作家たちは、自身の作品に対する客観性を有していて、特に世間的なジャンル分類について極めて自覚的なのは、何らかの教育の成果だというふうに思われる。
この教育を施した主は、特定の誰それでは無論なくて、この情報化社会の「情報」そのものだろう。現在は本当に劇的に、人の知のあり方が変わってきている。情報は単なるデータではなく、すでに人の情念のあり様や欲望の方向性を定めるものと、再定義されている。実際たとえば、「恋」とは「情報」に他ならないかもしれないのだ。
より現実的な分析をすると、投稿サイトではそれぞれジャンル別に投稿先を選択するようになっていて、書き手はセンター入試の選択科目を選ぶように、自作は「ホラー」だとか「SF」だとか、自覚的に分類せざるを得ない。この能動性はかなり重要で、昔のように自分の世界をひたすら書き綴り、手当たりしだいに持ち込んだり、賞に応募したりすれば、相手が勝手に可能性を見出して分類するだろう、という甘えた期待から、今の書き手を飛躍的に成熟させた。
一方で、自らの幻視をただ書き綴るというスタンスのままでいる書き手は敬遠されたり、馬鹿にされたりすることが多くなっている。とはいえ、そんなことは今に始まったことじゃない。日本で一番親しまれている幻視者は、おそらく宮沢賢治だろうが、生前にまったく認められなかったことを思えば、そこは昔も今も同じだ。
人々が自らで自らをジャンル分類するのは、自身へのラベル貼りに抵抗がない、むしろそれによって安心したい気持ちの現れだろう。混沌としているのは、ネットだけでたくさん、か。けれども今の社会の過渡期が過ぎて成熟したころ、再び大いなる幻視者が現れ、新しいジャンルの始原 = 資源となるのかも。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■