海堂尊の「全自動診断装置・トロイカ君」は SF 医療小説とでもいった、たたずまいである。格差社会が、露骨な医療格差に結びつき、それが制度化されたら、という発想だ。
医療小説というのは、カテゴリーの定義としては明確だが、意義付けはなかなか見出しにくい。床屋小説とか、八百屋小説とかいうカテゴライズが考えられないように、職業としての医療従事者の小説というふうには考えない方がよいだろう。とすれば、医療というものの何かが本質として作用し、文学的テーマと化する可能性があるということだ。
文学と響き合う医療の側面とは、やはり生死であり、死をもたらす行為と医療行為が紙一重であるところから、サスペンスやミステリーに繋がってゆく。しかしこれは、サスペンスやミステリーの舞台が医療現場であるということに過ぎない。一方で、快復を前提に、生へと向かう方向を考えると、生物としての人間の有り様と、社会化された人の有り様とのずれが多くドラマを生む。一般によく言う医療小説とは、この後者を指す場合が多い。医療とは、当然のことながら第一義として快復を目指すものなのだ。
人間の肉体は生物として、ある意味プレーンなものとして与えられているのに対して、医療現場は社会化され、また制度化されてもいる。特に文学作品化するときに注目されるのは、医師や看護師といった医療従事者の側の制度であって、一般に知識を与えたり、興味を刺激したりする。
有名なところでは、テレビドラマ化された『白い巨塔』で、医療を施す側の社会的制度に目を奪われ、そこへと登り詰めようとした医師が、患者と、そして自らの肉体性に裏切られ、足をすくわれるというものだ。
海堂尊の「全自動診断装置・トロイカ君」はパロディに近く、徹底された患者のヒエラルキーが形づくる制度の有り様を描いたもので、山崎豊子の『白い巨塔』とは対象的に、医師の視点からしか出てこないものだ。
医師にとって大事なのは統計学だ。どんな人もマスの一滴として捉え、来し方を推察し、行く末を予言する。医療は科学であって、例外はほとんど存在しない。それは医学の基本だ。とすれば、効率化を目的として患者をカテゴライズし、ヒエラルキーを構成させるのは、必ずしも悪ではない。医療の前提は快復を目的とする、本来的に善なるものである。
だからそこにヒューマニズムは存在しない。本来的に善なるものとして「人間を科学する」以上、ヒューマニズムとは前提に過ぎず、問題にならない。患者に対して傲慢な医師は存在するが、本来的に善なる意志を持っていることに変わりはない。その傲慢さは、ヒューマニズムによって懲らしめられ、反省を促されるような類いのものではない。単なる「欠落」なのだ。本来的に善なる意志を持つものでしかない医師が態度をあらためる瞬間とは、その「欠落」を指摘されたときでも、患者と同じ肉体を自分も持つと実感したときでもなく、医科学と経営の対象である患者が離れてゆくと感じたときなのだ。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■