「野性時代フロンティア文学賞祭!」と称して、受賞作が刊行された作家のインタビュー、また受賞者らの競作がなされている。
新人賞の受賞者らで「祭」ができるというのは、文芸誌の中ではかなり恵まれた状況ではないか。特に純文学系の雑誌では、新人賞の惨状は目に余る。新人以外の作品の扱いもひどくなっていることから、その陰に隠れて話題にもならないのだが。
この出版状況における作品レベルの低迷をうんぬんすることは、新人賞に集まる作品に関するかぎり、当たらないように思える。かなりの数の、何とも言えない作品が集まることに、昔も今も変わりはない。読者の数は減っているのに、表現者の数はむしろ増えている。受賞に値する作品が一つあれば、という願いがかなうなら、全体のレベルなど問題ではない。
昨今の最も顕著で、憂うべき気風は、とにかく他人の書いたものに興味がない、ということだろう。そういう書き手は昔もいただろうが、もう十分に勉強しつくした(と、少なくとも思っている)とか、ものすごく才能があって、読まなくとも見当がついている(と、少なくとも思っている)とか、「読む必要がない」根拠をそれなりに抱えていた。今はただ、「読むのが苦手で」とか、「(自分は)表現したい人なので」とか言い放って恥じない。そのくせ「文章力がない」などと悩んでいたりもするから、よくわからない。では「何力」ならあるというのだろうか。
もちろん、文章力を養うためには他人の書いたものを読まなくてはならない、といったことを言っているわけではない。そもそも「読むのが苦手」なのに、なんで書いたものを人に読ませようとするのか。本を読む楽しみを知らないのに、なんで本を出したいと思うのか。
金魚屋プレス、文学金魚でも新人賞を募集するらしい。投稿子の悪口を言いすぎては、応募作に影響が出てしまうかもしれない。だいたい、そんな愚痴は百年一日、以前から文芸誌にクーポン券を付けて、三ヶ月分集めて貼らないと応募できないようにしようか、という話が出るくらいだ。文学金魚についてはタダなのだから、隅々まで読んでから応募してもらいたいと祈る。
そしてしかし、受賞して誌面を飾ることと、一冊の書物にまとまることとは別物だ。新人のうちは、それもピンとこないだろう。新人でいるというのは、未完成であるということで、その面白さはある。野性時代フロンティア文学賞の受賞がすなわち刊行インタビューに直結するイメージを与えられているということは、ある意味「新人」賞からは一歩抜けているということかもしれない。
ただ、新人賞がいかに未完成なものにも与え得るとしても、そして未完成の面白さを愛でるものでもあるとしても、受賞が完成に向けられた第一歩なのは約束である。今の純文学系雑誌にあるような、受賞後第一作が出ないといった体たらくは、受賞者ではなく、編集者の怠慢にあることは明らかだ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■