「あやかし跋扈」という魅惑的な言葉で、恩田陸と夢枕獏の連載コーナーがある。「あやかし」も「跋扈」も、もはや文芸誌でしか(あるいは政治の世界で、か)しか見られない言葉だ。「あやかし」は「妖」、「跋扈」は「ばっこ」と読む。
夢枕獏も恩田陸も「妖」なるものをエンタテイメントとして、意識的に書き続けている作家だ。つまりはそういう需要がある、ということだ。しかし日常的にはすでに聞かれなくなった「妖」なるものを求め続けているのは、どういう読者だろうと考えると、いまいち像を結ばない。ソフトにポルノがかった恋愛ものなら18歳~27歳ぐらいの女性、時代ものなら30歳~75歳の男性、といったマーケティングが少なくとも我々が外から考えるに、難しいように感じる。子供が喜ぶような、そうでもないような。。。もちろん各編集部は把握しているのだろうが。だよね?
「妖」なるものをエンタテイメント的なものとして、文芸誌などで純粋培養している感があるようになったのは、そんなに以前からずっと、というのではない気がする。今はなんだか妖しいものがない時代だが、戦後の高度成長期の社会には、妖しげなものが溢れていたのではないか。
戦後作家の代表、有吉佐和子と松本清張は、当時の妖しげな、あるいは怪しげなものを描くことで、しかし妖怪作家でなく社会派たり得ていた。戦後の混乱に乗じて底辺から這い上がろうとする人間の姿は、怪しくも妖しく、悪と生命力の魅惑に満ちていた。
社会はそういった人間たちを包含しつつ、企業や政治家、社会全体も高度成長の思惑に満ち溢れ、むせ返るような欲望をエネルギーとして蠢いていた。社会全体が高い温度の培養器で、雑菌がそれこそ跋扈しているようなものだったろう。
その最後の名残りは、あの堀江貴文のライブドア事件だったように思う。あのような存在が社会の秩序を乱し、若者の倫理観を損ないかねない、というのはよくわかる。わかるが、では彼本人がどう悪かったのかと問われると、良くも悪くもその「悪」がよくわからない。「良くも悪くもの悪」とは妙な言い草だが、悪の持つ「あやかし」の魅力は欠いていた。跋扈はしていたが、それは妖しい欲望のエネルギーからではなく、空虚さの持つ軽さからだった。
不景気の時代が続き、人々の欲望はちんまりと、ただ不安を紛らわすばかりとなった。リビドーとしての生命力も、妖しいセックスアピールもない〈希望〉にすぎず、役所や会社に申請するものでしかない。
夢枕獏はときに詩的でもある改行の多いテキストに、ねっとりした表現が妖しさをきっちり提示する。恩田陸は女性らしい、すっきりしたきれいな文体に、いつもの収拾のつかなさ?が妖しさを高めることを期待したい。おそらくはマーケティングすらされない、ほとんどすべての我々の中に、妖しさへの渇望はある。プロ中のプロの手により、それを純粋培養でもしなくては賄えなくなった時代とはすなわち、文芸誌が社会と切り離されたところで培養されてでも続いている、この時代でもある。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■