山村正夫記念小説講座で、逢坂剛の特別講義が収録されている。グラビアでもその様子が掲載されているが、若い女性が多かったらしい。
特別講義の再録などというと、有名大学の名誉教授の、といったイメージがある。が、そういう風景はもはや過去のものかもしれない。文学というものが本来的に知性の産物であることは変わらないのだが、かつての仏文科、英文科や国文科といったアカデミズムによってそれが裏打ちされることの必然性は、見失われかけている。
それでこの特別講義は、小説執筆の実践と経験を語るものなのだが、アカデミズムの講義には文学青年(これも死語だが)が集まるのに対して、小説の実践講座には若い女性が多いというのは、どういうことなのだろうか。世にいる作家志望は、特に女性が多いとは思えないが。
講義でなされた質問も実践的で、官能シーンをどう書けばいいか、といったものだ。こういった質問を大真面目にして、それに他者から真摯な回答が得られると思うのは、女性ならではかもしれない。
創作を人に教わろうとする姿勢をダメと思うか、それで一定以上のスキルが確かに磨けると思うかはそれぞれだ。スキルが磨けることは確かだが、その姿勢ではいずれ大成はしないとするのは男性が多く、大成するもしないも、まずスキルがなければ話にならないだろうと考えるのが女性と思われる。
そしてどう考えても、この後者の女性的な判断の方が合理的であり、「知的」である。アカデミズムにとらわれたり、意地や羞恥心によって判断したりするのはごく「感情的」だと思うが、現代において創作を志す女性は、そのような感情の動物ではない。
高度情報化社会において必要とされる知性は、多く女性によって発揮されるケースが増えているのではないか、と感じる。ためしに IT 関連のサポートに電話してみるといい。女性の担当者はたいてい親切で気づかいに満ち、一段階ずつ抜かさずに教えてくれる。男の担当者はそれに比べると雑で面倒臭そうだ。ど素人だからサポートが必要なのだ、という基本的な想像力を欠いている。彼らは自分と対社会という構図の中で、こんなわからんちんを相手にしなくてはならない自身の立場を思って生きているだけだ。
高度情報化社会におけるクリエイティビティは、女性の知性や社会的判断力を発展させる類いのものではないか、と思われる。逆に言えば、この社会のあり様を直観的に理解し、そこでの知性を高度に発達させた女性こそがクリエイティブな存在となり得る、ということだ。かつて男性が築き上げた社会構造の中で、情念的な存在として振る舞うことでしか特定の居場所を確保できなかった女性たちの立場は、いつの間にか、しかし確実に変わりつつある。
だがさて興味の中心は、いじましくも可愛らしい、おバカさんな男たちの意地が、いかに純なかたちで感動を呼ぶか、ということだ。そんなテーマをものにするのも、果たして知的な女性たちばかり、という結果になってしまうのかどうか。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■