「おそとで読書」という特集だ。寺山修司の「書を捨てよ、街へ出よう」からすると、ちょっと未練がましい。金井美恵子の「書を持って家に帰れ」からしても。もっとも、ブックガイド「私がおそとで読みたい本」で紹介されるのは街中よりむしろ野外で、特に北極で読みたいというのは、わりあいに説得力がある。氷に閉ざされて、本を読むぐらいしかないだろう。
つまりは世界が変化しているかどうか、という問題なのだ。「読む」とは変化の確認と、場合によっては予想にほかならない。世界に嵐がおとずれ、ライオンが走り、星が降り注ぎ、火花や花火が破裂しているのなら、その変化を読むのに余念がないはずで、どんな書物を開いていても間抜けである。
一方で、夜の帳やら氷やらに閉ざされているとか、大平原のど真ん中にいる、または大河や大海原を安全に漂っているなら、それは自然環境という「室内」にいるのと同じことだ。豪華客船のデッキと客室と、どちらも戸外なのか、それとも両方とも一種の屋内なのかと考えると、人の意識においてアウトドアとインドアの本質的な差異とは、どういうものかと考えてしまう。
読書という行為において、それが問題になるように思えるのは、人の精神世界がその所在場所とパラレルに、すなわち無縁に展開されるからだ。だから普通に考えれば、どこで読むか、は意味のない問いのはずなのだ。音読しないかぎり、誰と読むか、が無意味であるように。
それでも戸外、あるいは自然環境という「室内」で、具体的にはハンモックの上で気持ちのよい風に吹かれながら本を読むというのは、なかなか抗しがたい魅力がある。それはたぶん、この現実の世界をプレーンに感じられる環境で、それが書物の世界とパラレルであることがすっきりと受けとめられるからだろう。特定の部屋の特定の壁紙模様に囲まれた読書は、その特定の場所から離脱するものだ。が、ハンモックの上ならば、その世界に溶け込んだまま、別の世界に行くことができる。その別の世界で、主人公が変な色の壁に囲まれて憤懣やる方ない気分でいても、読む自分はそれを理解しつつもストレスは感じない。
「物語のお弁当をもって、おそとへ」というのも、ちょっと惹かれるものがある記事ではある。「読書のお供は、もちろんお弁当」という、あくまで「読書」にもってこようというコンセプトは、出版不況から現実逃避すらできなくていじましいが、「人気作家の小説に出てくるお弁当」というのがそんなにあるものか、しかもさすがに美味しそうである。お弁当は会社とか学校とかにも持っていくが、「おそとへ」という特集であるからには、やはりおそとで食べるお弁当でなくてはならない。つまり問うべきは、そのお弁当が「読書のお供」かどうかではなく、「人はなぜおそとで食べたくなるのか」だ。
それは「なぜハンモックの上で読書したがるのか」と、実に重なり合うのであって、食べるというプレーンな行為はときどき、世界との直接対峙みたいなものを必要とするのではないか。そのとき言葉は、同じ口から生じるものとして、口に入る食べ物からできている気がする。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■