『Unicorn』は創刊当初から、俳句以外の芸術成果を検討することを編集方針にしている。創刊号では当時出版されたばかりの岡井隆の歌集『眼底紀行』を巡って、前田希代志構成による安井浩司、松林尚志、酒井弘司の誌上座談会が掲載されている。各同人の評論・エセーを読んでいても、他ジャンルの文学はもちろん、ヨーロッパ最新哲学の成果なども積極的に取り込もうという姿勢がうかがえる。ここにも『Unicorn』という雑誌が体現する、一九六〇年代から七〇年代の大きな時代のうねりを読み取ることができる。
戦後の日本で、最もクロスカルチュラルな状況が出現したのは一九六〇年代から七〇年代にかけてである。瀧口修造主導の実験工房には武満徹、湯浅譲二といった音楽家や谷川俊太郎らが集い、密に交流した。暗黒舞踏の始祖・土方巽のアスベスト館は唐十郎、寺山修司らの演劇人を輩出し、加納光於、中西夏之らの美術家も参加していた。吉岡実、加藤郁乎らの詩人も土方と濃密に交流した。この状況は八〇年代にはほぼ霧散する。少なくとも若い芸術家たちの本質的な意味での集団交流はなくなった。むしろ詩人は詩だけを、小説家は小説だけを全ての表現世界だと考える凪のような停滞が進行した。ジャーナリズムはそれなりに活発だったが、それにより文学界全体が徐々に衰退していったのである。
既述のようにいわゆる戦後文学の基礎を作ったのは、恐るべき抑圧の時代を経験した戦中派の文学者たちである。彼らが作った戦後文学の可能性を限界まで引き出したのが、終戦時にはまだ少年・少女だった文学者たちである。その成果は六〇年代から七〇年代にかけて花開く。それはどの芸術ジャンルでも同じだった。戦後の第二世代の青年たちは、自らのジャンルの可能性を追い求めながら、他ジャンルの芸術家たちの成果をも貪欲に取り込もうとしていたのである。
岩田宏あたりが同じ世代の者としてとりたてている「一九四四年の中学生」にみられる詩的原点にしたがえば、当時、僕の場合は国民学校の三年生だった。この、ほぼ七つちがいの隔りは、同窓ならぬ同庭感として、その身長的畏怖感と同時に、それらやや大幅の世代感情を共有できるリミットとなっている。そしてその感情的風景は〈つねに遠のいていく風景〉として今も変わらない。教科書をはじめ教材一切を失ったその頃は、校庭に造られたにわか塩田に潮を汲む作業と、教室にあっては〈めいもく〉のみが毎日の時間割であるかのごとき詩的な旦暮であった。(中略)時たま眼をひらいてぬすみ見る菜の花ばたけの幸福感は、あの詩句におけるめでたき言葉たちの幸福感と、どこか通じあうものがあり、この辺が、あの飯島詩の詩的原点に、やや図式的な卑近さをもって共生感めいたものにまで発展できる、奇妙な因果となっている。
(【共同研究 飯島耕一】『遊泳のトライ・アングル』より大岡頌司『方法への憧憬』)
飯島耕一を巡る誌上討議から大岡頌司の飯島論を引用した。大岡が書いているように、飯島は昭和五年(一九三〇年)生まれで十二年(三七年)生まれの大岡より七歳年上である。加藤郁乎とほぼ同い年(郁乎が一歳年上)で、飯島は郁乎の親しい友人の一人だった。飯島は詩集『他人の空』(昭和二十八年[一九五三年])でデビューしたが、表題作に、『空は石を食ったように頭をかかえている。/物思いにふけっている。/もう流れ出すこともなかったので、/血は空に/他人のようにめぐっている』と書いている。
この作品には飯島の戦中体験が色濃く表現されている。飯島は昭和二十年(一九四五年)八月二十日に陸軍航空士官学校に入学予定だった。もちろん空で散る覚悟をしていた。しかしその決意は八月十五日の終戦でぷつりと断たれた。『空は石を食ったように頭をかかえている』『血は空に/他人のようにめぐっている』という飯島の詩行は、死なずにすんだが、悲壮な決意を奪われた当時の少年の心情を表現している。飯島はもう戦争は終わったのだと知りながら、八月二十日に航空士官学校の閉じた門の前に佇んだと回想している。
飯島と同じく、大岡も終戦時のなんとも表現しようのない空白を体験した一人だった。戦後の青年は多かれ少なかれ、個人の意志では如何ともし難いこの空白を埋める必要に迫られた。たとえば寺山修司の映像作品には頻繁に日本兵が登場する。もちろん単純な戦争賛美ではない。少年だった寺山の目の前には、現実はどんなにおぞましいものだったにせよ、狂気のような興奮に包まれた〝戦争〟があった。しかし渦中に飛び込む前にそれはきれいに消滅した。寺山はそれを虚実入り乱れた狂騒的演劇空間で表現しようとしたのである。ただ大岡が回復すべきものは、もっと静かで原理的だった。それを大岡は『その感情的風景は〈つねに遠のいていく風景〉として今も変わらない』と表現している。
あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景・・・・・・
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
(吉田一穂 詩篇『母』全篇 大正十五年[一九二六年])
大岡が引用した『つねに遠のいていく風景』は吉田一穂の代表作『母』の一行で、処女詩集『海の聖母』に収録された。寡作だった一穂は詩集を出すたびに過去作を再録したが、『母』は必ずといっていいほど選ばれた。この詩は若き日の大岡の愛唱詩だったようだ。大岡の母は産後の肥立ちが悪く、彼を生んだ後すぐに亡くなった。大岡俳句の読者は彼の作品主題が亡くなった母に置かれていることをよく知っているだろう。大岡はあれほど強固で抑圧的だった社会が全面崩壊した空白感を、母を失った喪失感に重ね合わせているのである。つまり大岡の〝母の主題〟は必ずしも実体験を巡っているわけではない。それは大岡個人はもちろん、社会にとっても回復されなければならない〝原理〟だった。
処女句集『遠船脚』(昭和三十二年[一九五七年])の巻頭に、大岡は『寄生木の憶え』という詩篇を置いている。また第二句集『臼處』(うすど、三十七年[六二年])から三行の多行形式で俳句を発表し始めた。大岡の多行俳句は特異である。簡単に言えば、初めて意識的に多行俳句を実践した高柳重信的な理知性がほとんど見られないのである。大岡の多行俳句は土俗的だ。ある単語やイメージに固執し、言語で表現し得る以上の観念を引きだそうとしている。その意味で象徴主義的である。俳句として書かれ発表されているが、大岡の多行作品は俳句と自由詩(象徴詩)の中間にあると言ってよい。
第六句集『寶珠花街道』(ほうしゆばなかいだう、昭和五十四年[一九七九年])以降、大岡は一行俳句を書くようになった。しかし晩年に再び多行俳句に戻った。大岡は平成十五年(二〇〇三年)に亡くなったが、死去直前の十二年から十三年(〇〇~〇一年)に、四行の多行形式による『山海経(壱)、(弐)』を発表している。一穂の詩篇『母』と同じ四行というのは偶然だろうが、大岡が表現したいと望んだ観念は、最後まで既存の俳句形式には収まりきらなかった。観念を凝縮して表現したいという欲求が大岡を短詩形式に向かわせ、かつ既存の短詩形式をはみ出させてしまったのである。
特定の文学ジャンルに囚われていたのではわからないだろうが、日本の象徴主義は詩歌全般に大きな影響を与えた。象徴主義を代表する詩人は北原白秋だが、白秋門下からは萩原朔太郎と吉田一穂という優れた二人の詩人が生まれた。加藤郁乎は一穂の愛弟子を自認していたのである。大岡は前衛俳人に分類されるが、その前衛性は俳句文学に留まるものではない。文学ジャンルを超えた日本の象徴主義の文脈で再検討される必要がある。
投銭を海べの巨き飛行あり *1
緊貝とは宮の狼をいぶしゆく *1
白神よ産褥の紙を焚きはじむ *2
江戸病へ艇のけむりの少年か *1
人参が死産の家へおどりゆく *3
沼べりに夢の機械の貝ねだり *3
山河の父よりかえる蟲の寺 *3
白茸てんかんおこるときの神 *4
父(おや)がいま百人塚の気がして帰る *3
*1 句集未収録
*2 『中止観』(昭和四十六年[一九七一年])収録。「白神よ」→「石原に」に改稿
*3 『中止観』(昭和四十六年[一九七一年])収録
*4 『中止観』(昭和四十六年[一九七一年])収録。「神」→「友」に改稿
(安井浩司『皮獲説』全)
第二号で安井浩司は、第三句集『中止観』(昭和四十六年[一九七一年])に収録されることになる作品を発表している。『N0.010 『現代行動詩派』『ぽぷるす』』『N0.011 『KLIMA』』で論じたように、処女句集『青年経』(三十八年[六三年])を刊行する以前に、安井は自由詩の創作に熱中した時期がある。安井の自由詩への取り組み方は本格的なものだった。詩集こそ刊行しなかったが、作品の質は俳句的な行を並べて自由詩とした加藤郁乎よりも高い。安井は自由詩が俳句のように形式によって成立する芸術ではなく、個々の詩人がある中心観念を措定して、独自の方法で言葉を構成するジャンルだということを理解していたのである。
スリリングだが、ほとんど徒手空拳の無防備さで俳句の実質に迫ろうとした加藤郁乎とは異なり、『Unicorn』刊行当時の安井は〝もどき理論〟によって、形式として立ち現れる以前の俳句本体に迫ろうとしていた。第2号発表の『皮獲説』が奇妙なイメージに満ちているのは、安井が俳句本体の蠕動を言語化しようと試みているためである。ただそのような試みを行うことは、季語や切れ字といった俳句技法に囚われている俳人には不可能である。形式は、本質的にはある観念から生み出されるという自由詩的発想が必要である。
受容の密度には差があるにせよ、安井や郁乎、それに大岡もまた自由詩から大きな影響を受けている。彼らは六〇年代から七〇年代にかけてのクロスカルチュラルな状況が生んだ、最も戦後的な俳句〝前衛〟である。安井、郁乎、大岡の三人は、結社を作らず俳壇の一匹狼として過ごした。あるいはそうせざるを得なかった。本質的に従来の俳句伝統と断絶した思想を抱えていたのである。
安井は『高柳は、俳句形式の即自性に就く、どこまでも俳句であろうとする俳句、いわゆる俳句形式の思想を見事に具現するはずの〈俳句〉願望を持続して来た』と批判した。重信もまた自由詩から大きな影響を受けた俳人である。ただ重信の多行俳句は、あくまで俳句形式に揺さぶりをかけるためにあった。しかし重信以降の俳句前衛は、俳句形式のさらに先へと足を踏み入れたのである。
六〇年代からのクロスカルチュラルな状況が八〇年代で霧散したのは、ある芸術が他ジャンルから必要十分な影響を受けて、その後、自己の領域でそれを深化させようとしたためだとも言える。しかしその中の何が最も貴重な成果なのかはこれから検証されることになるだろう。また二〇〇〇年代に入って、主に詩人や小説家が積極的に複数ジャンルの創作を手掛けるようになった。それはかつてのように無限の表現可能性を夢見ることができる向日的なものではなく、文学全体の行き詰まりから生じている。歴史は繰り返すが内実は同じではない。『Unicorn』の短命は、前衛であることの厳しさをも示しているだろう。
鶴山裕司
■ 『Unicorn』第2号 書誌データ ■
・判型 B5版正形 縦25.3センチ×横18.1センチ(実寸)
・ページ数 57ページ
・奥付
ユニコーン(季刊)第二号・昭和四十三年九月二十五日発行・定価五〇〇円(郵送料共)・編集兼発行人門田誠一・印刷所大阪市福島区亀甲町一丁目五五亀甲センター協栄印刷工芸株式会社・発行所奈良市百楽園三丁目門田誠一ユニコーン・グループ
・同人(20人)
伊藤陸郎、馬場駿吉、徳広順一、大岡頌司、大橋嶺夫、加藤郁乎、吉本忠之、竹内義聿、竹内恵美、八木三日女、安井浩司、前田希代志、松林尚志、前並素文、藤吉正孝、酒井弘司、島津亮、東川紀志男、門田誠一、塩原風史
* 同人名簿はないが、「後記」に大原テルカズが退会し新たに塩原風史が参加したと記載されている。
■ 『Unicorn』第2号 目次 ■
【評論】
近代と伝統Ⅱ-保田与重郎「芭蕉」をめぐって 大橋嶺夫
鳥貌の時、幼年のための囲繞 安井浩司
*
[寄稿]諧謔の妖気 永田耕衣
*
一瞥の彼方 加藤郁乎
自然について自然に 吉本忠之
HEIMATLOSIGKEITと樹姦 前田希代志
家出考 島津亮
買物の倫理 竹内義聿
森の思想 徳広順一
【共同研究 飯島耕一】
遊泳のトライ・アングル 大岡頌司/前田希代志/吉本忠之
【わが故郷】
わが故郷 酒井弘司
火と故郷 竹内恵美
海こひし 八木三日女
天王寺界隈 松林尚志
【書評】
大岡信著「現代芸術の言葉」 松林尚志
【往復書簡】
村について 伊藤陸郎/門田誠一
【作品】
酒井弘司/大橋嶺夫/藤吉正孝/安井浩司/竹内恵美/八木三日女/竹内義聿/島津亮/松林尚志/吉本忠之/前田希代志/馬場駿吉/伊藤陸郎/東川紀志男/門田誠一
*
後記
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■