安井浩司氏は昭和31年(1956年)から32年(57年)にかけて、『現代行動詩派』と『ポプルス』の二つの詩誌に同人参加し、自ら『KLIMA』という同人詩誌を刊行している。この2年間、安井氏が俳句創作活動を行われていたかどうかは不明だが、雑誌を読むと相当に自由詩に入れこんでおられる。短い間だが、本気で自由詩に打ち込んでいた時期があったのではなかろうか。今回取り上げるのは同人参加されていた『現代行動詩派』と『ポプルス』である。
安井氏からお借りした『現代行動詩派』は第1号から3号までの三冊である。表紙2色刷りの活版印刷で第1号は38ページ、2、3号は42ページである。安井氏を含め二十数人が同人だった。1、3号の表紙装画は独自の画風で知られる洋画家の野村清六で、2号は洋画家の合志幹雄である。芸術界にそれなりにネットワークを持つ詩人たちの同人雑誌だったようだ。安井氏は第3号に詩1篇を執筆しておられる。以下に『現代行動詩派』の刊行データを掲げておく。
■ 『現代行動詩派』刊行データ ■
『現代行動詩派』第1号 昭和31年[1956年]8月15日印刷 同年同月20日発行
『現代行動詩派』第2号 昭和31年[1956年]11月15日印刷 同年同月20日発行
『現代行動詩派』第3号 昭和32年[1957年]4月20日印刷 同年同月30日発行
僕が説明するまでもないが、1950年代から60年代は戦後日本が最も動揺した時期だった。そのメルクマールがいわゆる60年安保闘争でのデモ隊の国会乱入事件だった。またこの時期は、いわゆる『戦後詩』『現代詩』の詩人たちが、ようやく詩集を刊行し始めた期間に当たる。『現代行動詩派』の裏表紙には、渋谷・中村書店版の谷川雁の処女詩集『大地の商人』の広告が載っている(初版は昭和29年[1954年]母音社刊)。谷川雁は一時期実際に労働争議を指導した社会運動家でもあった。
私たちは過去を秩序付けて認識する癖がついており、鮎川信夫・田村隆一らの『荒地』派の詩人が出て、その後に谷川雁や堀川正美らの戦後詩派が続き、さらにそのあとから飯島耕一や入沢康夫らのいわゆる『現代詩』派が出現したのだとなんとなく考えている。しかし詩集の刊行年度を辿れば必ずしもそうとは言えない。
鮎川の処女詩集『鮎川信夫詩集1945-1955』は昭和30年(1955年)刊、田村の処女詩集『四千の日と夜』は31年(1956年)、飯島の処女詩集『他人の空』は28年(53年)、入沢の処女詩集『倖せそれとも不倖』は30年(1955年)刊である。戦中の大きな空白期を埋めるように、戦後詩も現代詩も50年代末から60年代初頭にかけて、マグマのように一挙に噴き出してきたのである。安井氏が自由詩を書いた時期は戦後詩・現代詩の揺籃期であり、急速にその頂点へと上り詰めていった全盛期でもあった。
安井氏からお借りした『ぽぷるす』は第8号から11号までの四冊である。表紙2色刷りの活版印刷で第8号は38ページ、9号33ページ、10号26ページ、11号28ページである。十数人が同人参加している。安井氏は第9、10、11号に3篇の詩を執筆しておられる。以下に『ぽぷるす』の刊行データを掲げておく。
■ 『ぽぷるす』刊行データ ■
『ぽぷるす』第8号 昭和31年[1956年]9月1日発行
『ぽぷるす』第9号 昭和31年[1956年]12月発行(奥付なし)
『ぽぷるす』第10号 昭和32年[1957年]4月1日発行
『ぽぷるす』第11号 昭和32年[1957年]11月1日発行
『現代行動詩派』も『ポプルス』も、当時、詩で積極的に社会参画、社会批判を行っていた『列島』や新日本文学系の雑誌ではない。そういった詩も散見されるが、大半は個と社会との関係を内面化して捉えようとする『荒地』系、現代詩系の作風である。安井氏の作品も内省的だが、そこには俳句芸術では捉えにくい社会意識が表現されている。
一つの凍つたみづうみから
一つの凍つたみづうみへ 歩いてきた
(中略)
重い荷は置いていこう
鋏や金属製のものなどは捨てなければ
少年のころから 肌身離さず持つていた袋がある
人形・ナイフ・象のおもちや・お護札などが入つている
母の写真も底にうずくまつているはずだ
だが こんなものがどうだと云うのだ
そこらに捨てなければ わたしが氷の上に捨てられてい
くというだけだ
(『湖上の入』部分 『現代行動詩派』昭和32年[1957年])
現在確認できる限りということになるが、『湖上の入』が安井氏が公に発表した自由詩の処女作である。この作品で安井氏は『凍つたみづうみ』の上の孤独な歩みを描いている。また『少年のころから 肌身離さず持つていた袋』を『そこらに捨てなければ わたしが氷の上に捨てられてい/くというだけだ』と書いている。
安井氏が当初、自由詩を書くことが、より直接的に同時代と切り結ぶことであると考えていたのは確かだと思う。〝捨て去らなければならないもの〟の中には、一時的な衝動で終わったにせよ、もしかすると『俳句』も含まれていたのかもしれない。詩は『一つの凍つたみづうみから/一つの凍つたみづうみへ 歩いてきた』で始まり、『どこまでも どこまでもみづうみの上を歩いていく』で終わる。何かを求めて激しく彷徨う思念がある。そして詩はあくまでも作家にそれを言語化するよう求める芸術である。
私の前に 樹木が立ちならぶ
闇はひろがっていった
閉ざされた内部には
明るい空が 剥げ落ち
片隅に 重い思惟がうずくまっていた
(中略)
女よ 樹木よ
あれ以來今でも 私は見たいのだ
冬の海 白い浪のざわめきを見たいのだ
冬の海 の息づまるイメージに
あゝ私は 思いっ切り砕けていきそうだ
(『冬の海――ある女に。』部分 『ぽぷるす』第10号 昭和32年[1957年])
『冬の海』は『ある女に。』という献辞が付いているが、『女よ 樹木よ』とあることから、『女』は私を取り囲む『樹木』と同質のものだということがわかる。『湖上の入』と同様に、この作品でも強い閉塞感が表現されている。私は『明るい空』、『冬の海 白い浪のざわめきを見たい』のだがそれはかなわない。そうしようとすれば、私の方が『思いっ切り砕けていきそう』になってしまうのである。
おれはこの街で何を撃とうとするのか
もう誰もやって来はしないだろう
戦火で傷ついた褐色の兵士たちでさえ
こゝへ睡るために来はしないだろう
(中略)
風があたらしい血の匂ひを
この街から海のある方へ搬ぶころ
もう、こゝでは
完全に誰も居なくなってしまった
(『街』部分 『ぽぷるす』第11号 昭和32年[1957年])
詩篇『街』で表現されているのは戦後の青年が捉えた閉塞感である。敗戦による社会の大変革は人々に大きな期待を抱かせたのち、一瞬で日常の方に揺り戻っていった。ストライキや安保闘争で社会は騒然としていたが、本当はもう〝何も撃つものがない〟という閉塞感が当時の知識人の心を捉え始めていた。それは従軍体験を持つ『戦火で傷ついた褐色の兵士たち』も、戦後の青年たちも同じだった。60年安保闘争は政治的には失敗し、70年代に入ると高度経済成長の波に乗って生活を謳歌する人々と、なおも社会変革を求める人々との間に大きな溝が生じていくのである。
自由詩はまったく思想・形式的制約のない芸術形態であり、その巧拙を簡単に判断することはできない。作家の思想が核になり、作家個々に異なる独自の表現形式を生み出すのである。極論を言えば、優れた自由詩を書くための決定的な技術など存在しない。それまで自由詩を支配していた短歌的抒情と完全に訣別して、初めて自由詩独自の表現を確立したのは萩原朔太郎だが(朔太郎は北原白秋門下である)、彼の詩の思想と表現形式は今読んでも独自であり特異である。
安井氏の自由詩作品は言葉が溢れ出すように書かれている。もっと簡単な言い方をすれば比較的長い作品が多い。何かを求めて思念が彷徨っているが、俳句での行き詰まりが形式的制約のない自由詩に彼を向かわせたのではあるまいか。
次回は安井氏が編集・発行人となって刊行した同人詩誌『KLIMA』を読んでみる。俳句・自由詩を問わず、安井氏が主宰した唯一の同人雑誌である。
鶴山裕司
■ 『現代行動詩派』掲載 安井浩司作品 ■
湖上の入 安井浩司
一つの凍つたみづうみから
一つの凍つたみづうみへ 歩いてきた
カチカチ・・・・・・と 冷い火花をはね返すように
渇いたぼろ靴の爪先で 支えきれない
みづうみの重量を推測してみたりする
そこには 誰もいないのに
おどおどと背後に気を配り
喰いちらした内臓や白骨などを捨てゝきた
伏目がちにうずくまりながら
オーバーをちぎつて 焚火をたいたりした
ひとり 凍つたみづうみを歩いてきた
ほのじろい沈黙がおそろしく寂しいのは
疲れているせいなのかも知れない
重い荷は置いていこう
鋏や金属製のものなどは捨てなければ
少年のころから 肌身離さず持つていた袋がある
人形・ナイフ・象のおもちや・お護札などが入つている
母の写真も底にうずくまつているはずだ
だが こんなものがどうだと云うのだ
そこらに捨てなければ わたしが氷の上に捨てられてい
くというだけだ
凍つたみづうみを歩いていく
どこまでも 漂流船のように歩いていく
風のために背を押されているのではない
とすれば すでにどことなく歩かされていた
一つの方位を持たない姿勢だつたのかも知れない
カチカチ・・・・・・リズミカルな音が
冷い脳を 透明な響きをもつて通過する
氷の上を月が白くたゞよつているのに
影が無いから そのまゝ
わゝたしは どこまでも歩かねばならないのだ*1
一つの凍つたみづうみから
一つの凍つたみづうみへ 歩いてきた
だが そのことは決して昨日ではないのだ
過去が未来へと継ぎわたされる
そのようにやつて来るのが わたしであるとしても
わたしの姿はどこに投影されていると云うのだろう
ひとり どこまでも氷の上を歩いていく
時に 頭上を鋭く流れる
暗い流星の天文学的位置について 考えながら
どこまでも どこまでもみづうみの上を歩いていく
*1 「わゝたし」は「わたし」の誤植か。
(『現代行動詩派』昭和32年[1957年]4月20日印刷 同年同月30日発行)
■ 『ポプルス』掲載 安井浩司作品 ■
友シリアに-君の薔薇は知る- 安井浩司
星が岩の上に堕ちてくる
そのたび君の薔薇は知るだろう
あおい虚空へ駈けのぼる
美しいことばでつらぬかれた
かぼそい生の懸け橋を
あおむけにのぼっていった火の記憶
やわらかい不安定な愛の末端を感じながら
それは日焼けしたアドバルンのように
鳥類の瞳に映った恋とMaerchenの幻覚だったか
無邪気な神々の贈物だったか・・・・・・
運河に双掌を入れると
腐った鉄やコンクリートのかけらが吸い附いてくる
そのような記憶のなかで
僕たちが地に穿った孔は何処へ通じていたのだろう
己れのいのちと愛情を盗むために
己れの罠のなかで
崩れていった影法師の内臓よ
狂いたつような闘争と情熱の
舞踏の環をせばめていく・・・・・・
その最後の一点から昇天する魂を見とゞけた日
それは一体何だったか
人々は答えることもないのだ そして
僕たちはいかに愛の終末を記憶することに無関心だったことか
<Willst du meine L ebe in Stein?>
<Staendchen in Stein・・・・・・
おもいおもいのアリアをうたうたび
こぼれていった歯の枚数
君の喉頭を透かすと
それは遠い無人島のようだ
広い石壁に触れると
抵抗感をぶらさげた男女の肉体が甦る
一つのいのちが死ぬために
一つのいのちが生れてくる
田舎舞台の楽屋裏で
カナリアはいつからかおし黙ることを憶えた
荒れた丘だけの視界の中で
骨のように立ちならぶ白い杭たち
季節はそれらの墓標に追憶の風呂敷を重ねていった
もう尋ねまいね 君はさゝやく
それは恰も嵐の後の敷石に触れて鳴る落葉のように
僕たちはもはやダイスに刻まれた冷い数字の仮象であることを
あの雨の日予感していたとしても・・・・・・
記憶が明日の記憶を作っていく
暗煙臭いその中で
君の薔薇は又新しい落体を知るだろう
階段の登り口にある新鮮な血のついた頭蓋について
(『ぽぷるす』第9号 昭和31年[1956年]12月発行)
冬の海――ある女に。 安井浩司
私の前に 樹木が立ちならぶ
闇はひろがっていった
閉ざされた内部には
明るい空が 剥げ落ち
片隅に 重い思惟がうずくまっていた
女よ
灰色の髪を飾る女よ
白い歯列を立てながら
お前は 行きつく処を知らない
まして 歩くことさえ知らない
お前は うす紅いの爪のなかに*1
何と豊かな過去だけを 宿していたのだろう
――その日 私はこのように
叫びつゞけていた
それから・・・・・・
私はいくたび 夢の中で
私の前に立ちはゞかる 樹木を押し分け
海を見に行こうと 思い立ったことだろう
冬の海に あこがれ
冬の海の 茫漠たる郷愁に狂っていた
女は 私の退化した乳房を噛んだ
枯木のような肋骨をさすった
何者かが抜けていく
私の肉体を つゝぬけに去っていく
重い速度感に うなされていたのだ
それでも女は 私の表面や
皮膚の上に 固い根をはりめぐらした
女よ
何故 お前は歩こうとしないのか
せめて 私の背後からでも・・・・・・
私は外部に向って このように
叫ぶ余裕すら ないなんて
何とあの日以来 疲労に埋もれていたのだ
空しい生の果てに
女も私も行き逢うものが 何であるか
お互に知り尽くしていたくせに
でも お前は女の幸せを少し知り過していたようだった
私の前に 立ちはゞかる樹木
鋸をあてゝも そのものは
次から次へと移動してやって来る
闇をたずさえて せめ寄せて来るのだ
柵をかためて 私を逃すまいとしているのだった
そうだ 私は知っている
お前の烈しい身振りは 何であったか
それは 私を殺そうとする 幼稚な殺意だったことを
女よ 樹木よ
あれ以來今でも 私は見たいのだ
冬の海 白い浪のざわめきを見たいのだ
冬の海 の息づまるイメージに
あゝ私は 思いっ切り砕けていきそうだ
*1 『うす紅いの』は『うす紅の』の誤植か。
(『ぽぷるす』第10号 昭和32年[1957年]4月1日発行)
街 安井浩司
かわいた街に立ち
白亜の塔の影を踏み
おれは銃をかついでいった
街樹は朝のひかりを受けながら
死者のようにもだえ
薔薇園には洗濯物がはためいている
そこら溝や石階にはしずかな空気がみち
弱い風が石灰のように乾わかしている
両側に立ちならんだ厚い壁へ
黒い影が無数にはりつき
動くような気配がして
ふり返ると、そこには誰も居ない
おれはこの街で何を撃とうとするのか
もう誰もやって来はしないだろう
戦火で傷ついた褐色の兵士たちでさえ
こゝへ睡るために来はしないだろう
みどりの風が家畜の屍を
足もとへ影のように投げかける
押しつまった建築物の隙に
太陽が堕ち嵌まって
時間がごみくずのように溜っている
たゞとり残された蠅どもが
その上に黒ぐろとたかっていて
人なつかしい音をたてゝいる
*1
おれは肩から銃をとりはずして
硝煙くさい涙を拭いた
もうおれを見つめている人も
窺っているものも無いだろう
あの広場から
ねじれた路地の片蔭から
壁が剥げおちた無数の隙間から
昨日の貌がいっぱいに甦る
蒼白な貌の列がおもく動きだして
スクリーンのように向うの塀へ消え
狂った時計がふいに鳴り出してくる
鳥がこの街の空へ還って来て
やがてあちらこちらから人らしいものが出て来て
槍や鉄兜を持ち、せわしく戦さの準備をする
おれはいま何を撃ったのだろうか
この死んだ街に立って
もう血が流れるものゝない中で
不意に血をとび散らしたものは何だったか
あの石原のうえに動いた追憶の影ではない
亡霊のようなアドバルーンの顔でもないだろう
銃音を確かめると、重い足をひきずって
四方が見えるビルの屋上にのぼっていった
遠い果てに扁平な海がのたうっている
だが、青い海とは別に
屋上の片隅で
胸を赤く染め おれの肉体が
無惨にも倒れていたのだ
風があたらしい血の匂ひを
この街から海のある方へ搬ぶころ
もう、こゝでは
完全に誰も居なくなってしまった
*1 安井氏による「空」の書き込みがあるので、一行空きの誤植だろう。
(『ぽぷるす』第11号 昭和32年[1957年]11月1日発行)
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■