ふじのくに せかい演劇祭2013参加作品
『Wainting For Something』
(サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』より)
鑑賞日:6月16日
於:舞台芸術公園
作・演出 中野成樹
原作 サミュエル・ベケット
出演 チェ・ナラ(ソウル市劇団)
村上聡一(中野成樹+フランケンズ)
石橋志保(中野成樹+フランケンズ)
キム・ソンヒョ(ソウル市国楽管弦楽団)
演出助手・字幕操作 北川麗(中野成樹+フランケンズ)
照明 樋口正幸
音響 大塚翔太
ワードローブ 丹呉真樹子
制作 鶴野喬子
通訳・字幕翻訳(韓国語) 金恵玲
字幕翻訳(英語) 新藤敦子
協力 世宗文化会館
支援 平成25年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業
後援 駐日韓国大使館
韓国文化院
舞台を囲んだ三角ポール、ブルーシート、ロープ——工事現場のような舞台に男と女がいる。男の携帯は電池が切れている。充電したいので電源貸してくれませんか? すると女は韓国語で、あなたは強盗ですか? 日韓共同制作の本作はその冒頭から、日韓の言葉の壁に断たれ、曲げられ、行き当たってはバッタリと倒れる言語コミュニケーションを提示する。観客に日韓バイリンガルは何人いただろうか。そう多くはないだろうし、演出するうえでも日本語モノリンガルな観客が想定されている。だから字幕でも「半分しかわからないことが本作のおもしろさです」とのことだ。半分はわかる。が、しかしその「わかる半分」はどの半分のことなのか。
字幕には韓国語、日本語、英語の三言語が駆使され、会話の内容が「半分しかわからない」場面は実はあまりない。とくに英語は頼りになる。つねに字幕に表示され、淡々と二言語を簡明な英文に翻訳してくれる。ということは、「半分しかわからない」というのは単純な内容のことではない。
携帯の充電をするために女の部屋に上がり込んだ男だったが、そのまま二人で暮らし出して2年が経つ。いまだに携帯は充電中。女は言葉の通じないやり取りの末に生まれた誤解——この男がロンドン住みのミュージカル俳優で、充電が終わったらヴェニスに連れてってくれる予定——を、さすがにもう信じられないものの、それでも信じていることにしておくことが生活のすべてになりつつある。絶望しないための見込みのない期待。相変わらず言葉も通じない。この生活がこの先も…それならわたしは木になろう、と女は風にそよぐ木を演じる。ねぇ、それヨガでしょ? と男。ボディランゲージもダメだ。
二人は互いの名前も知らなかった。「私の名前は…です」が通じないからだ。でも英語でならばそれくらい言える。男はソウイチといい、女はナラといった。観客のために字幕の底を支え、淡々と内容を伝えていた英語が、ここにきて観客−俳優間の共通言語になる。 字幕が停止し、観客の耳目が二人に注がれる、が…
”How old are you?”
“I’m 38 years old”
“You are a very very old man”
二人の英語力では、こんな会話しかできないのだ。それが二人の話したいことのすべてであるわけはないだろうが、それは半分しかわからない。もう半分、言葉にならないことはわからない。安定の内容伝達装置であった英語字幕もまた半分でしかなかった。問題はさらに言語コミュニケーションを浸食する。我々は<常に>半分しかわからない。
突然充電中の携帯が鳴って、ソウイチの元妻=シホが登場する。舞台上の日本語話者が二人となり聡一の過去が明るみに出る。離婚届を書きっぱなしで韓国に逃げてきた。日本国内で彼は行方不明者として受理された。書き損じがあって、まだ離婚は成立していない。それをナラにも伝えたいが、ここでも英語力が壁になる。遅れて「通訳」が登場する。ようやく3人の間で一連の出来事の背景が共有される。ソウイチは元カノのミホコと連絡を取って韓国で会う約束をしていたが、携帯の充電が途中で切れてしまった。そこで出会ったナラがミホコに似ていた。その結果二人は言葉も通じないまま暮らし、ナラはソウイチがヴェニスに連れて行ってくれる約束を待ち続け、シホはいつかソウイチの電話が通じるのを待ち続け、ミホコもまたソウイチがやってくるのを待ち続けているかもしれない。三人の女は2年間それぞれに一人の男のために待ちぼうけていた。そのことがわかったとき、シホは一言だけナラと韓国語を交わし、二人の元を去る。その一言の内容について、ソウイチと観客には字幕も用意されていない。
言語としての(表象としてのと言い換えることも可能か)演劇は半分でしかない。表象された<それ>でその演劇が完結しているわけではない。例えば我々は岸田國士の『紙風船』を見、読んで、夫婦の剣呑な言葉のやり取りから想像すること以上に彼らを理解することはない。『紙風船』の解題注釈を読んだなら、あるいは演出ノートを——おなじことだ。言語は一定の規定を演劇(と観劇)に与えるが、それによって演劇(と観劇)は言語化の投網の目を抜け落ちていったいわば<プレ-言語>の海の浮島となる。観客はそれぞれの視野で水面下をのぞくが、すべてを見通すことはできない。「唯一解への到達=完全な理解」は、演劇(と観劇)から最も遠い概念だろう。
言語は我々にも一定の形を与えてくれる。自己紹介ができる、情報をやり取りできる。そして経験則から、言葉にしたあとには「うまく言えないこと」が残っていることもわかっている。それを含めて<わたし>とする。誰かの理解上の私は<わたし>とはどこか不一致だ。我々がお互いに理解しているというときには、<わからない半分>はある精確さをもって共有されているのにすぎない。我々もまた言語だ。<半分>だけが見えて、聞こえる。
本作が下敷きにするサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』では、二人の老人は「ゴドー」という名前のほかなにも知らない「なにか」がやってくるのを待ち続けている。ゴドーは「今日は行けない。明日は行く」と伝言する。<半分>だけはいつも届く。だから二人は明日も路上で<もう半分>を待つほかない。
<半分>を受け取ってしまったから、我々は<もう半分>の到来=完全な理解の到来を待つのだろう。限りなく望み薄、だが絶望せずに済むくらいの見込みで。「期待は待っている時間の一部に過ぎなくて、それも含めて待っていることを楽しんでいる」聡一がナラに告げる言葉だ。そのときナラは聡一の言葉を聞きながら鉢植えの木の植え替えのことを考えている。それを観劇する我々も、<もう半分>を各自想像しながら、別々のことを考えている。
【写真提供:SPAC】
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■