東京12チャンネルの経済ニュースをやたらと視るようになったのは、年齢のせいだろう。確かに、大学生たちが電車の中で「ほら、東京12チャンネルとかさ、誰も見てないようなのをさ、」なんて話しているのを聞いて、えっ、と思ったのだから。
年齢のせいではあるにしろ、ものすごい経済活動をするようになったわけではない。多少は訳知りになり、愚にもつかないインチキドラマなんぞよりもリアルな社会のドキュメントに興味を惹かれるようになったとしても、普通のニュースではなくて、東京12チャンネルの経済ニュースでなくてはならない、という理由は何だろうか。
少なくとも普通のニュースというものが、愚にもつかないインチキドラマとちょっと似ているところに、なんとなく飽き飽きしている、というのはあるかもしれない。大学生が思うところのメジャーな民放の同じキー局でやっているそれらが、まるで同じ匂いを放っている。さらに隣りの局でやっているニュースも、同じようなドラマの匂いがする。つまりはどこもかしこも、手垢のついたドラマしか転がってない気がするのだ。
小説、文学の衰退というのは存外、そんなところにあるのかもしれない。本当に情念を揺さぶるような、ドラマチックなドラマがない。ノンフィクションにそれを求めようにも、それすらいつの間にか安手のドラマと化している。
日々刻々と変わる数字の形であるにせよ、問答無用に事実を突きつけるものとして提示される経済ニュースはたぶん、それらよりはまだ清潔な感じがする。理念を抱えた政治や歴史、偉大なる情熱とは質的に異なるとはいえ、それに通じる瞬間も皆無ではない。情念が平板化した現在、ささやかであっても確実な手触りのあるドラマは、経済活動の中にしか保証されていないのでなないか。
池井戸潤の新連載「陸王」は、衰退しつつある足袋メーカーの社長が、社運をかけて新しいプロジェクトを立ち上げる。マラソンなどに用いられるスポーツシューズで、なるほど考えてみればミズノもナイキも結構な国際的な企業だ。スポーツによる認知というのは、大きな経済活動と比しても決してバカにならない。
そもそも何かを「立ち上げる」というのは、物語のプロットを「立ち上げる」にも通じて、小説的にはゲンがいい?ものだ。さらに経済小説には、手形の期限とか銀行の取り立てとか、主人公たちをいいあんばいに追い詰めてくれる要素もあって、ますます小説的なのだ。
ただ経済活動というのは、本質的にいじましい。理念でも情念でもない、お金の話にすぎないのなら、当事者たち以外には関心のないことだから。その経済活動が何らかのロマンや観念に結びつくビジネスというのは、やはり極めて限られてくる。これについては “ 文学 ” の要求はとても高い。単に世の中が変わったぐらいではダメで、社会的には意味がないかもしれない、宇宙ロケットとかでなくてはならないのだ、やっぱり。
長岡しおり
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