「変わりゆくヒーロー」という特集である。二人の仮面ライダー、藤岡 弘、と白石隼也にインタビュー、また宇野常寛が評論を載せている。
ヒーロー像は時代とともに変化するが、宇野常寛の批評にも示されているように、60 年代を象徴していたのは「怪獣」であった。怪獣たちのはかりしれないエネルギー、次々と生み出される不定形の可能性はまさしくあの時代のものだった。
文学金魚でも寺田農氏インタビューなどで取り上げた池袋モンパルナスの芸術家たちが、円谷プロの怪獣たちの誕生に関わっている。時代の再評価とともに、今、怪獣たちの持つ(当時は考えもしなかった)アヴァンギャルドな芸術性が注目されている。誰が見ても(当時でも)番組の最大の魅力は、次にどんな怪獣が登場するか、である。怪獣たちは恐怖心をあおる大きさと破壊力を持ちながら滑稽でもあり、社会風刺を体現し、ときに哀れで同情を誘う。
特集であるヒーローという存在に話を戻すと、ウルトラマンやウルトラセブンというのは、その不定形のエネルギーをやっつける、というよりそれに秩序と方向性を与えるという役回りであった。ウルトラマンもセブンもヒーローではあったが、そこにあったのは突出したヒーローとしての魅力ではなく、時代の象徴たる数多くの怪獣たちと相まみえるという特権性であったと思う。
そしてその特権は3分というごく短い制限があり、その意味でも、また怪獣たちと同様に他の星からの流れ者であるという存在の基盤の脆弱性から言っても、ウルトラマンはどこかしら、ひ弱なヒーローであった。そのことが問題にならなかったのは無論、人々が目を奪われていたのが、異形の怪獣たちだったからである。それは皆が大挙して都会に押し寄せ、どんな世の中にしてゆくのか見当もつかない戦後社会そのものだったし、それに対抗するウルトラマンはさしづめ田舎出の若い官憲ぐらいの雰囲気であった。
70 年代に入り、宇野が指摘するように、仮面ライダーは「変身」というキーワードで語られる。いや誰が指摘しなくても、あの頃はあっちでもこっちでも「変身。とうっ!」と叫びながら、子供が椅子の上から飛び降りていたのだ。しかし仮面ライダーも、迫るショッカーも、ウルトラマンらに比べれば、おかしみにもエネルギーにも欠け、暗かった。
思うに 80 年代には、もはや時代はヒーローどころでなくなった。誰もが自己を少しでも余計に肥大化させることに夢中になり、またその営為には相応の手応えもあったのだ。手の届かない、よその誰かを仰ぎ見るといった行為はひどく牧歌的に映るようになった。90 年代以降の不景気には、それはそれでさらにそんな余裕はなくなった。
現在の我々にとっても、ヒーローは不在であると言っていい。我々の関心を惹くのは、激しい過渡期のこの時代の行く末だが、それそのものを象徴する、あるいは把握して牽引しているような存在は、今のところイメージできない。そしてまた、大いなる他者を仰ぎ見ることができないとは、それに比例して自身への不安も増す状況であるということらしい。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■