日本のラスプーチンと呼ばれていた佐藤優氏の小説「外務省DT物語」が新連載だ。インテリジェンス小説と銘打ってあって、これに目を惹かれた。時代小説、恋愛小説とさまざまにジャンル分けされる小説にあって、インテリジェンス小説というのは初めて見た。
一瞬、登場人物がインテリばかりなのか、著者がインテリなのか、読者にインテリジェンスが求められるということか、と錯覚してしまう。恋愛小説では、読者が恋愛中であることをマーケティング的には想定する。女嫌いの「恋愛小説家」という映画もあったように、著者についてはどうでもいいらしいが。
言うまでもなく、通常の小説作法からすると登場人物がインテリばかりでは辛い。小説というのは、ある空間を作り出すもので、空間はさまざまな方向性によって押し広げられていくものだ。方向性とは、登場人物のバラエティに他ならない。男がいて女がいて、老いと若きと壮年と子供がいて、性格も知性もとりどりであれば、それだけ空間を張りやすくなる。
ただ、そういったことは小説家にとっての技術ではあっても、いわゆる「インテリジェンス」ではなかろう。もちろんどんなジャンルでも、その基本的な技術に欠陥があると、少なくともそのジャンルにおける知性には欠落があるように見えてはしまうが。
主人公に相当高度なインテリジェンスがないと、成り立たない小説というのは、主人公が犯人であるようなミステリー小説、純文学でもエンタテインメントでも可能な一部の心理小説である。
主人公が犯人である場合には、まさに犯人であることにおいて主人公は多くの場合追い詰められ、そもそも犯罪を犯すことになった愚かしさを露呈する。それがカタルシスというものである。心理小説は私小説的に内面を肥大化するもので、やがて知性では制御できなくなったエゴのさまを見せつける。知が愚かしさに接近するまで、終わることは許されない。それが小説というものである。
ある社会においては、知の対義語は愚かしさよりはむしろ、無知である。情報を持っている者と持たない者、この両者が入れ替わることはあっても、基本的に交わることはない。情報を持つ者は強者であり、持たない者は取るに足りない。つまりは「インテリジェンス」とは、強者の側にまわるための情報、さらにはその情報を得るための知恵を指す。
それが「インテリジェンス小説」というジャンルの技術でもあろう。持たない者に知性が欠落しているように映るのもまた、当然のことだ。その世界はしかし、小説の世界そのものではない。「インテリジェンス小説」とは小説の一ジャンルというより、情報でしのぎを削る世界のことを書いたテキストのことだ。その世界における「インテリジェンス」にとって「小説」とは、「名前やプロットが架空のもの」という意味を持つ。情報としては価値はないが、何らかの真の情報の似姿を示すと期待されるものではある。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■