日大芸術学部の発行する江古田文学は、学内誌と文芸誌のちょうど中間にある感じの雑誌で、それがゆえの興味をもっても読めるときがある。
今回がそうで、日芸出身で学内で教鞭をとる「批評家清水正が『ドストエフスキー論全集』を完遂に向けて」(という日本語は、あまりよくわからないが)として「ドストエフスキー in 21世紀」という特集である。
まず驚くのは、その清水正と、同じく日芸出身で学内で教鞭をとる中村文昭編集長との対談の長さだ。雑誌で、ここまで長い(と言うよりも、ブ厚い)対談は見たことがない。誌面は混乱はしていないから、テープ起こししたまま、一言一句を載せているとは思わないが、積極的ないわゆる「編集」をしていない。
それはそれで、そういうやり方をあえて採る、ということはあるだろう。内輪のおしゃべりのだらけた感じがなければ(あっても超有名人同士だと、それも面白い)、いいとは思う。むしろ同僚同士で、よくこんなに話すことがあると感心するぐらいだ。
清水正の批評手法というのは「ネジ式螺旋」とも言うべきもので、ドストエフスキーならドストエフスキーの作品のそれぞれで切り口を変えるということなく、ネジを押し込むように一つの読み方で押し通す、というものだそうである。というか普通、プロの批評家というのは、そういうものだと思うが。なおかつその自身に固有の読み方こそが、最も斬新で正しいと思い込ませるのが「芸」というもので。良くも悪くも。
それを「これは押し通しているのです」と、何もかも語ってしまうような対談で啓蒙的にも伝えるあたり、なんとも大学雑誌的だ。読者がほとんど学生と想定しているところで、自ら手法を包み隠して神秘化するなど、教育的ではないからだろうか。
こういった見慣れない姿勢に対して、商業誌とのスタイルの違いをことあげしたり、垢抜けないと思ったりすることはない。むしろ感じるのは、今となっては商業ベースにのっているとは思えない自称「商業誌」が、実際には小説家志望の「ワナビ」への教育誌としてしか売り上げを見込めない現実と、にもかかわらずどこまで本気で教育する気があるのか、と思う文学的「幻想」の作り方だ。
それは三田文学とか早稲田文学とか、大学雑誌としての前身、いやいまだにその側面を持ちながら、高い(偏差値からくる?)学習能力によって最低限の商業誌スタイルを身に付けたような雑誌に対して、特に強く感じてしまう、というのも事実である。
よくよく考えれば、たとえば文藝のような雑誌がまだある中で、めったに出ない早稲田文学が、なんであれほどジャーナリスティックな体裁をとらなくてはならないのか。三田文学に至っては、あれほど品のいい大学雑誌として、一時は商業誌にもひけをとらないプレステージを保っていたものが、なんでこんなに露骨に文壇に接近し、同時に得体のしれない書き手を持ち上げる組織と化してしまったのか。
まあ、そんなからくりに首をひねるよりは、江古田文学の同僚同士の長大な対談でも読んでいた方が、フローベール的な快楽があるというものだ。「ブヴアールとペキュシェ」だけど。
池田浩
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