同人誌評というのは、どの視線で読んでも不可思議な感覚にとらわれる。特に三田文学の同人誌評は、雑誌自体の現在のたたずまいとあいまって、どんな文芸誌よりも「文壇」を思わせる。とはいえ、三田文学の同人誌評が文壇然と権威的である、というわけでなく、むしろそんな雰囲気にはほど遠いのだが。
まずこれだけ読むのは大変だろう、と感心する。さらに取り上げられない作品も読んでいるだろうから、まっとうに考えれば尋常な量ではない。もしかして送られてきた全同人誌の全作品に目を通すのだろうか。詩や俳句なら必ずしもさほどと思わないが、小説の応募といえば各誌の新人賞の選考でも編集部総出に下読みの外注さんと、大わらわになる。それほどではないにせよ、季刊であれば年四回、三ヶ月の間に溜まった同人誌を時評担当者が二人で読み尽くすと、原理的にはそういうことになる。
それだけの労力をかければ、権威的にもなりたくなるのが人情というものではないかと思うが、そういう気配はない。これは自分の好みかもしれないけれど、といった趣味的なものをあっさり認める発言も散見し、ようは、善し悪しを判断する原則や状況の本質を見極めようといった姿勢がないのだ。
そのことは、たとえば新人賞の選考委員による授賞理由というようなものとは対照的だ。その賞へ向けて(ということで)書かれ、熱意を持って応募されてきたものから選ぶのとは違う、ただ全国で発行されているものを(いちおう)網羅し、俯瞰で眺めていることだけですでに意義がある、というふうにも思える。
しかし、それら趣味が反映されていることを認める会話の中には、自分たちが私小説ばかり取り上げると同人誌の後記に書かれていた、といったことも含まれている。つまりは三田文学の同人誌評は、厳然とした制度であり、その場がその頂点であることをも自覚はしているのだ、ということだ。
かといって、そこで取り上げられても、すぐにだからどうということはない。商業文芸誌に転載されたり、繰り返し名前が挙がったりすることで徐々に注目されるということがないこともない、という話である。何と言っても、誰にも頼まれることなく、放っておいても出ている同人誌のことだ。商業文芸誌に吸い上げられたい、ただそれだけのために書き続けていると決めつけるのも失敬である。と、そう考えることがまた、逃げ道にもなってくれる。
かつては文學界で、まさしく「公器」の義務として為されていた感のあった同人誌評が、三田文学に譲り受けられたことは、大きくは二つの効果をもたらした。一つは言うまでもなく、三田文学が「公器」としての役割の一部を担うものだという印象を与えたことだ。二つ目はしかし、以前と比べても、聞いたことのない批評家ばかりを露出させたり、同人誌作家同士の往復書簡を掲載したりするなど、三田文学はかつてないほど同人誌化している。したがって三田文学の同人誌評とは、同人誌間におけるそれであって、文壇から俯瞰した同人誌一覧とは違うものだ、とも思える。
そこまで考えれば、ではさて文壇とは、という問いへの解を三田文学が示している。同人誌から三田文学へ移りゆく過程に変化はなく、三田文学的なるものが実は文學界の前身だったとしたら。まあ、つまり文壇のお里は同人誌なのだが、別に恥じることもあるまい。
池田浩
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