世界文学という言葉を、このところときどき見かける。世界的な文学潮流というものはしかし、それほど意味のある概念なのだろうか。世界的な哲学の潮流というものは確かにある。1960年代の哲学、70年代の哲学、80年代以降、というふうに大きく捉えることは可能だ。
しかし文学というものは、いつだってローカルでパティキュラーなものではなかったか。もちろん東西で驚くほど似ている文学概念とか、同じプロットというのはある。それはだが、本歌取りか翻案か盗作か、さもなくば物語構造からくる必然的な結構の類似で、時代がずっと隔たっていることもめずらしくない。要するに創作の本質というものは、古今東西でそんなに違わない。
創作者の姿勢がその時代に固有のものとして記憶されるのは、その創作者をとりまく状況、たまたま生まれ合わせてしまった時代に、創作者がどう向き合い、どう切り拓いていったかというパティキュラーなあり方にある。普遍的、世界的な「文学なるもの」が存在し、そこから学ぶべきものがある、ということは考えられない。
三田文学の特集「現代中国文学のパワー」はそれ自体、別に異を唱えるべきものではない。ただ、今の日本の我々がそれに関心を持つのは、やはり自分たちの閉塞状況をどうするという観点からしかあり得まい。が、それに寄与するわけもないのは、多少のセンスがありさえすれば明白なことだろう。
あえて説明すれば、理由は二つに分けられて、もし我々の閉塞感の本質的かつ普遍的な部分を問うならば、事情は世界のどこも同じだからだ。まさかそれをもって世界文学と呼んではいまいが、ようは資本主義社会から高度情報化社会へ向かう過渡期における “ 落ち込み ” であり、だとすればそもそも、そんなときでさえ「文学」が(特に従来的なかたちで)なくてはならないのか、という疑念も湧く。
もう一つの理由は、我々の閉塞感のごく状況的な部分で言うなら、それは日本の不景気を論ずるのと大差のない話で、ならば「現代中国のパワー」を羨むのは、単に経済の勢いが文学も及んでいるらしき、と愚痴る以上のものにはならない。
我々にとっての「文学」とは、社会構造の大きな変化の中で、「そもそもなくてもいいんちゃう?」と思しきものが滅びてしまった後の、それでも生き残る何ものかでしかない。さらには景気の浮揚とともに、それなりに湧き立つであろう文学状況のあだ花の中にもない。創作者は本来、状況にパワーを与えるものであり、どこであれ現代の国家からパワーを与えられるものではあるまい。
まあ今の日本の閉塞状況では、隣国の様子を窺うまでもなく、その隣国なり、別の隣国なりから資金を引っ張ってくることをもって「文学活動」に替えられるという、きわめて奇妙な発想の転換が本気で語られかねない。が、それはあくまで密やかに行われ、いまだあるべき文学の姿を信じる純な輩を騙すインサイダーが支配する。長い伝統ある、経済の府でもある三田こそはむしろ、そんな取り引きについて語るにふさわしい場ではなかろうか。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■