慶応出身の僕にとって、三田文学は懐かしい、学生時代の憧れの雑誌だった。社会人になってからも見る機会はあったが、今回、あらためてじっくりと眺めることになり、さまざまな思いが湧く。
まず変わったなあ、と感じた。どこが、と具体的に把握するため、戸棚の奥を探しまわり、1990年の三田文学を見つけることができた。
なんというか、1990年当時の方が、目次がズドーンとしている。今の三田文学の方が細々と記事が並び、見出しの大小がついて「ちゃんとした雑誌」っぽい。が、文芸誌らしく変貌したのかといえば、中身はむしろ20年前の方が商業誌に近いレベルに見える。
まずラインナップ。昔の三田文学の目次がズドーンとしているのは、書き手の知名度の差異を意図的に無視していたからではないか、と思われる。いわゆる文壇での有名人と、三田出身の無名な書き手とを、ここでは差別しませんよ、みたいな。そう、思い出したが、そういうところが「三田は温情的かつ上品だ」という評価に繋がっていた。
で、ズドーンと同じサイズの活字で並んだ名前の中には、慶応と関わりのない、かなりプレステージの高い書き手が、フツーに入っていた。そこは文壇でもなく、三田の「村内」でもない、なんとなく自由で上品な文学空間、といった雰囲気だった。
今の三田文学の方も、必ずしも慶応出身者ばかりが書き手というわけではない。が、だとすればなおのこと、なぜそこでその人がメインで書いているのか、あまり腑に落ちない。
もちろん雑誌は「雑」だから、誰が何を書いてもいいのだが、「誰が何を書いてもいい」のなら、もっと自由で闊達な雰囲気、誰が読んでも理解でき、刺激的なものを並べるはずだろう。読めば、「ああ、なるほど」と掲載の理由が納得できるものを。
目次の中で、色つきで強調された見出しのうち、詩や連歌、大昔の久保田万太郎の原稿の再録などは、全体のレベルを引き上げるのに役立っていると思う。それらはだが「作品のレベル」であって、「雑誌のレベル」ではない。
雑誌のレベルを示すのは、対談などの企画だが、今回の対談「死者、この不可視な実在――井筒俊彦をめぐって」の意図するものが、僕にはよくわからない。
この記事を読む、すべての人が間違いなく「井筒俊彦をめぐって」という部分に期待するはずだが、対談で井筒俊彦については、ほとんど触れられていない。井筒先生はすごい、とか、立派だとか、抽象的な誉め言葉が合いの手のように入るだけだ。
具体的に言及され、賞賛されているのは対談者の一人の若松英輔という人の著作のことで、井筒俊彦論があるようだが、本人はキリスト教の信者だそうである。この人の書いたものについて、よほどよく読んでいる人でなければ、対談の内容はさっぱりわからない。今の三田文学の読者はそういう人ばかりだ、ということなのだろうか。
また「危機と絆」と題するシンポジウムの再録にも、多くのページを割いている。サブタイトルは「言葉はどこまで力を持つか」で、パネラーは物書きたちだが、率直に言って文学とはいっさい関わりのないテーマである。震災に関する世間話の合間に「そこでも、こんないい言葉が吐かれた」などと「言葉」という言葉を思い出したようにくっつけて、その無理矢理なこじつけは新興宗教とか、マーケティングの集会とかを連想させる。
三田出身の僕でさえ、すでにこのカルチャーからは排除されているようで、寂しい。慶応義塾大学でのシンポジウムだから、やむを得ず掲載したのかもしれないが、そういう「関係性」は一般読者の理解の外にある。
もちろん、今の三田文学が目指しているものが何なのか、あまりはっきりしない以上、商業誌レベルから離れたことが良いことか悪いことかは、よくわからない。
僕の持っている1990年の三田文学は、発行人が安岡章太郎、編集長は岡田隆彦。いずれも著名な小説家と詩人であった。当時の三田文学は、三田出身で一本立ちした作家が短いスパンで編集長を務め、その人の持つ人脈やカルチャーで風通しのよい雰囲気を作っていたと思う。そうさせていたのは、今は亡き江藤淳だ、と聞いたことはある。
今は発行人が坂上弘、編集長が加藤宗哉という人で、もうずっと何年も(10年ぐらい?)この体制らしい。編集専任のような人に長く任せることで、いい面もあるのかもしれないが、僕などには目的がわからない、特殊なカルチャーができあがっているようにも見える。
いずれにしても、久しぶりに眺めた三田文学の第一印象である。間違っているかもしれないし、もう少しフォローして見てゆきたい。金魚屋プレスの齋藤都氏による三田文学の定義づけも、部分的には納得するが、僕なりに多少の異論もあり、これから検証してみたい。
池田浩
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