「人間関係に悩んだら」という特集だ。が、小説作品はその処方箋と言うよりは、いっそう病いを深めるぐらいだろう。まあ、小説にそんなに直接的な実用性は期待できるものではない。そもそも作品というものは完成度が高ければ高いほど、現世的な解答なり答案なりとはかけ離れてきてしかるべきだ。
で、完成度うんぬんと関係なく、若い歌人でもある加藤千恵の「友だちのふり」という小説は、作品としてどうこうというのでもなく、現実の人間関係をあれこれ髣髴とさせるという点で、この特集に一番ぴったりくる。
彼氏とコンビニに買い物に行く。自分は地方出身で、彼は東京の人。そこへ同じ東京っ子の知り合いの女の子が絡む。短い時間の、この三人の関係。人間関係の凝縮という意味では歌人らしくて、なかなかみごとな設定ではないか。
「友だちのふり」というタイトルも、この一言に人間関係の粋が凝縮されている、とも言える。要するに人間関係とは、煎じ詰めれば「友だちのふり」に尽きる。
作品では、男の方が彼女であるはずの主人公に、「友だちのふりをしておこう」と囁き、第三者である東京っ子の女性の前で取り繕う。現実でもそういうことはあるものだと思うが、思っても、それがどうしてなのかよくわからない。パパラッチされるわけでも、事務所がうるさいわけでもあるまいに。
第三者である女性との発展(というのも、えらく古臭い言葉だが)の可能性を残すために、男がそのように振る舞いがった、というのなら、もちろん嫌な話にしかならない。が、そんなときに「彼女として紹介してほしい」と思うというのも、まだその資格もない女が、男に首輪を付けようとしているようで、これも嫌な感じがする。
つまりは「結婚」以外の男女関係というのは、はたから見るに、いずれ挨拶に困る代物なのだ。その男女が寝ていようといまいと、そのどちらかに自分が気があろうとなかろうと、すべての関係は誇示されても隠されてもみっともないとしか言えない。思うに、結婚とはよくできたものなのだ。「家内です。」「主人です。」という言葉のスマートなこと。
そしてもちろん「友だちのふり」という言葉だけを聞いて、一番に思い浮かべるのは、互いに反感を抱く同士が、その場だけの関係を取り繕うという方の「友だちのふり」である。そんな真似をしなくてはならないのは、たいてい他人の目を気にしているので、この作品の場合だったら男を挟んだ女同士が、男の手前、といったことになる。
「友だち」という語は、現代の日本において、「友情」といった概念とは何ら関わりがないものになっている。「友だちである」とは、恋愛関係も肉体関係も、反目も憎しみもありませんよ、という宣言もしくは糊塗以外の何ものでもない。何もかもフェイスブックの「友達申請」のせいのような気がする。「友だち」とはすなわち「無関係」のことだ。いいね!と言い合うほかは。
長岡しおり
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