新学期の始まる四月に、「思い出は、教科書とともに」という特集である。「誰しもが出会ってきた物語、それが教科書です。読書の原体験を振り返ってみませんか」とある。わりと意外というか、ちょっと意表を突く。
昔、読書好きであったり、少なくとも文芸誌を手にとったりするような子供の「読書の原体験」が「教科書」であるということは、まずなかった。そんな子の原体験は、幼児期に読み聞かせられた物語であったり、部屋で独りで読み耽った本だったりしたものだ。が、今は読書とは、学校で教わって習得すべき技の一つとなっている。
今昔で言えば、昔は「オタク」と言えば、コンピューターやアニメなど、周囲から必ずしも共感を得られない特定のジャンルが作り出すカルチャーの人、という意味だった。今では、読書好きはそれだけで「オタクっぽい」と呼ばれるそうだ。読書はかつては人として必要な教養全般を与える必須のものだったはずだが、今の「読書」は「周囲から必ずしも共感を得られない特定のジャンル」の行為らしい。
驚くべきことだが、そんな状況でも、小説を書きたい、小説家になりたいという若い人たちは相当数いて、それが現在の文芸誌のマーケットとなっている。その彼らは例外的に豊富な読書体験を持っているかと言えば、必ずしもそうではない。本を読むのが好きなことと、書いたものを発表して暮らしていきたいと思うこととは、まったく別のことだと言う。
それも一理あるかも、と思わないでもない。教科書に出てきたものを見て、自分は小説家というものになろうと思い立ち、いくつかの作品を読んで構成などを学び、小説を書く。そうやってできたものが、詰まらないとはかぎらない。存外に多くの読者がつけば、それこそ才能と呼んでもいい。
そしてもしプロとしてやってゆくなら、その過程で結局はいろいろな作品に目を通すことになるだろう。結果、いっぱしの作家となったときには、それなりの量を読んで知識を得ていることになる。まさにオン・ザ・ジョブ・トレーニングだ。
ともあれ本好きの子にとっては、知らない作家をチェックするツールに過ぎなかった学校の教科書が、もし本当に多くの子供たちの原体験となっているなら、昔よりいっそう責任重大だ。特集では、現役教師で歌人の千葉聡による教科書編集のルポが掲載されている。
松樹剛史の「実践!高校入試」は、「昨年度の都立高校の問題に、作者本人が挑戦!」ということだ。よく笑い話で言われる「出題文の作者にもわからない」難問ではなかったようで、これがテレビなら、ヤラセでも何でも間違いさせるのだろうが。
妙に印象に残ったのが、「小説すばる掲載の作品の多くが、あちこちの入試問題に登場しています。」という予備校のCMみたいなコピーで、いったい何を言いたいのか、だから何なのか、とちょっと考えてしまった。その心は、文芸誌も新人賞という一種の入試のテキストみたいなものだ、ということか。
長岡しおり
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