「京都で物語におぼれる」という特集だ。いわゆる「ご当地小説」というものの筆頭として京都が挙げられる、ということだが、その定義はちょっと微妙である。
その土地の物理的なあり様が重要なのは、ミステリーである。「ご当地小説」にぴったりくるイメージとは、やはり「グルメ温泉殺人事件」の類いだが、もう少し上等になれば、その土地特有の事情、鉄道の詳細な関係などが、小説のテーマにも雰囲気にも響き合うかたちで世界を形成する。
しかし、いやしくも「京都が筆頭に挙がる」ご当地小説とは、それとは少し異なるもののように思われる。小説に登場するあらゆるものは、それが土地であれ、人であれ、所詮はメタファーとして捉えられる。「京都」という土地は日本の西の、任意の場所の一つであったり、たまたま盆地であったりするという物理空間以上のものを、少なくとも小説というテキスト空間には与える。つまり「京都」とはすでに何事かのメタファーなのだ。
「京都」という地名がテキストにもたらすメタファーとしての効果を一切考慮せず、まったくプレーンな物理的名称として読み書きするとすれば、それは新たな実験的小説として認識されるべきである、というぐらいのものだ。とすれば、小説における「京都」とはすでに地名ではなく、そのメタファーとしての存在性のみを考慮すべき文学的な術語(ターム)であると言える。
「ご当地」という言葉は、「ご当地ソング」に特に露わだが、その歌なりテキストなりが当の「ご当地」にスポットライトを当てる、という役割を担うものとして期待されている。映画やドラマのロケ地としての尾道とか韓国のツアーに示されるように、その土地はそのテキストというヴェールを薄く掛けられて、そのテキストを頼りに「読解」される。あらゆる僻地、あらゆる無名の地は、そのような「読解」を待ち望んでいるとも言える。
それを最初に意識し、意図的に応えて実践したのが、松尾芭蕉であるだろう。単なる岩と土塊、水の流れが芭蕉の「命名」によって「歌枕」と化した。西の地域では、長い歳月に現れた多くの歌聖によって降り積んだテキストが可能にしたことを、芭蕉は一人でやってのけた、というわけだ。「ご当地俳句」である。
京都という場所に降り積んだ数々の歴史的事実をテキスト化したものは、相当の厚みをもって、別の「京都」というテキスト空間を出現させるに至っている。京都はすでにテキストを欲望することなく、むしろ今や人々の発する言葉の方が「京都」というテキスト空間に寄りかかることも可能になっている。
とすれば、この「京都で物語におぼれる」特集で森見登美彦が「京都を文学的に散歩する」とき、あるいは私たちが「そうだ、京都行こう」と思い立つとき、その京都は京都なのか、「京都」なのか。私たちは土地を訪れているつもりで、別のものを眺めているだけではないのか。それを「文学的」体験と呼ぶのは、不毛な気がする。
池田浩
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