いわゆる〝前衛〟芸術には、ほとんど徒手空拳で新たな表現領域を追い求める指向と、原理的基盤を確認しながら表現を更に深化・更新させようという流れがある。アヴァンギャルドとラディカリズムと言ってもよいが、いつの時代でも前衛芸術は存在する。『文學界』に限らないが、小説芸術の最前線である純文学誌にも、当然前衛指向はある。その試みのいくつかが近未来の芸術の思想・表現基盤になるのである。『文學界』10月号に書いている作家の中では、阿部和重、長嶋有、中原昌也氏らが前衛系若手作家の代表格だろう。長嶋、中原氏の掲載作品は連作なので、今回は阿部氏の読み切り短編小説を読んでみたい。
阿部氏の『□(しかく) 冬』は近未来、あるいは異次元世界を舞台とした小説である。ただし場所は東京浅草の合羽橋道具街あたりに設定されている。この世界ではカニバリズム(人肉嗜食)が行われている。数派に分かれた武力集団がなんらかの抗争を繰り広げているらしい。主人公は水垣鉄四(みずがきてつし)で彼は一種の触媒である。水垣は烏谷青磁(からすやせいじ)の依頼あるいは命令で、烏谷の友人・角貝(つのがい)ササミを甦らせる仕事をしている。カニバリズムが横行しているといっても現実世界との関連はない。食べられた者は一定の操作で甦ることができる。
水着姿の若い女が、スイミングプールの端っこで立ちどまる。赤いビキニと赤いスイミングキャップを着用しているその女は、すらっとした体型で手足が長く、身長も二メートル近い長身であることが遠目にもわかる。(中略)女はきわめて自然な動作と手順でプールの端っこから血の海に飛び込む。どろっとした飛沫が左右に跳ねあがり、飛び込んだ女の背中にほんの一瞬きりだが翼が生えたかのようなイメージがプール上にあらわれる。
――なるほどこういうことだったんですね。道理で見つからないわけだ。見てください彼女のおなかを。臍の持ち主は食べられるほうじゃなく、食べるほうの人間だったわけだ。
(阿部和重『□(しかく) 冬』)
水垣と烏谷は、全長二〇メートルのプールの中に詰め込まれた人間の血と肉片の中から、角貝を甦らせるために必要な四つのパーツのうち、最後の一つである『赤く染まった花形の臍』を探し出そうとしていた。しかしプールの中からは見つからず、血と肉の中で泳ぎ、人肉を食べるためにやってきた女の腹にそれを見つける。水垣は女と交渉して、自分の臍と女の臍を交換してもらう。食べる側、食べられる側の肉体と精神は簡単に交換可能なのである。また文体は現在形である。『No.008 文學界 2012年08月号』の対談で奥泉光、堀江敏幸氏がおっしゃっていた〝パフォーマティヴなエクリチュール〟だと言っていいだろう。『□(しかく) 冬』にプロットらしきものはあるが、それはある観念に沿って、その都度作家の指先から生み出されるのである。
――水垣鉄四よ今までどうもありがとう本当に感謝する。おまえの体に装着させた四つのパーツはじつのところササミの生存を脅かす大変に困った代物だったんだよ。そんなわけでおれとしては、ササミの復活を邪魔される前に一ヵ所にまとめて別のものに作り替えとかなきゃならなかったのさ。だから四つともセッティング済みのおまえをまずケーキに詰めて、中身に溶かしてミックスしてからペロリとたいらげちまおうって計画を立てたわけ。(中略)ちがいはおまえという自我が跡形もなくなるってことだけだ。しかしそもそもおまえ今だって主体性なんてないんだから、結局は一個も変わらんってことなんじゃないか。
(同)
水垣は角貝ササミを復活させるための四つのパーツを手に入れるが、それは『ササミの生存を脅かす大変に困った代物』であることが烏谷の口から明かされる。そのため烏谷は水垣をチョコレートケーキの中に閉じ込めて身体を溶解させ、仲間と食べてしまおうと画策する。水着の女の箇所で明示されているように、食べられたとしても水垣の存在原質のようなものが消滅するわけではない。『ちがいはおまえという自我が跡形もなくなるってことだけ』のことであり、『そもそもおまえ今だって主体性なんてないんだから、結局は一個も変わらんってことなんじゃないか』と烏谷は語る。主人公・水垣を含む登場人物に現実的な意味での実存的輪郭はない。登場人物の『主体性』は最初から存在しないのである。
――注意点はもうひとつある。(中略)四つのパーツをひとつにまとめるということは、角貝ササミに対する抑止力の消失を意味する。それにより、角貝ササミは封じ込めを解かれ、いずれおのずと蘇生することになるだろう。そうなれば、おまえはまた、この九ヵ月間とおなじことをやらなければならなくなるということだ。(中略)
ちょっと待ってくれ。それは必ずおれがやることになるのか。今回はたまたまおれが選ばれただけじゃないのか。
――それをやるのはおまえだけに限らない。生態系の要請にしたがって、世界中のだれもが常日頃からおこなっていることだ。それを避けられる人間はいない。
(同)
烏谷らに食べられそうになった瞬間に謎の爆発が起こり、水垣は難を逃れる。その意味合いを説明してくれるのは、水垣が手に入れた『花貝(はながい)さえずり』と名乗る眼球である。花貝は、チョコレートケーキに同化してしまった水垣は存在輪郭を失わずに復元されるだろうが、それによって角貝ササミは蘇生し、水垣はこれまでやってきたことを再び繰り返すことになるだろうと告げる。ただそれは水垣の宿命ではない。『世界中のだれもが常日頃からおこなっていること』である。世界は中心のない無限循環的な構造として捉えられている。存在と存在が入り混じり、偶然と僥倖でその結節点に出現するのが個人と呼ばれる仮象の人間存在(主体)である。
水垣鉄四はあきれ果てている。
スイセンの花に鼻を近づけたら、玉貝(たまがい)セセリが死んでしまったのだという。
三日ぶりに、烏谷青磁が訪ねてきてひょっとそう告げた。烏谷は泣いている。
その隣では、角貝ササミが退屈そうに煙草を吸っている。
――まいりましたね。それでどうするんです?
泣くのをやめ、烏谷青磁は玉貝セセリを蘇らせるつもりでいることを説明する。(中略)
――なるほど、ならなにを探すんです? 体のパーツですか?(中略)
――ちがう。探すのは声だ。声をあつめなきゃならない。
――声? 声なら楽に集められそうだ。
――バカ言うな。これが楽な仕事だなんてとんでもない。単なる声なら容易かもしれんが、正確には言葉の収集だからな。決まった言葉の組み合わせを集めなきゃならんのさ。
(同)
水垣と烏谷は何事もなかったように再会し、角貝も復活している。詳細に読めば様々な矛盾を指摘できるだろうが、そんなことはどうでもいいのである。彼らの興味は今は玉貝セセリを復活させることに向けられている。誰かが復活すれば誰かが死ぬ。だがそれで終わりではない。同じことが無限に繰り返される。そしてそれは、『言葉の収集』によって為される。『決まった言葉の組み合わせを集めなきゃならんのさ』という烏谷の発言は、神秘的な秘文字を見出すという意味ではない。小説を書くということである。任意の言葉を集めて小説に組み上げ動かしがたい作品にすれば、『□(しかく) 冬』で角貝が復活したように、玉貝セセリもまた蘇るのである。
この世はさしずめ際限のないマーブルカラーに魅入られたオニユリの花トンネルに吸い込まれるしかない血管疾患が未開発地区にまで唄いあげたからといって密会したきり登坂路線をホバリング中のためドングリのアクロマチック・レンズで蓋をしなければなるまいと高層階のミルキードロップに対し夜空に指摘されるもそれはカタクチイワシの土星料理に添えられた欧風キビナゴのあでやかな意思に反するからと突破口より出勤するのはコケモモの導きが淡く突き刺さったセリング・クライマックスの夕べ。
(同)
このような書き方はいわゆる現代詩のものである。ロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』以降の詩の書き方では今や古典的なものだと言っていい。ただそれは、奥泉光氏ら前衛を代表する作家たちが現在の小説の基盤だと考えている、『物語というのは小説ではないわけで、物語を軸にしながら、それを巡ってコンセプチュアルな企みやアイディアでもって言葉の構築物をつくっていくのが、要するに小説なわけです』という思考に正確に対応している。
ここでは作家によって、言葉から日常的な意味伝達性が剥ぎ取られている。言葉は現実世界との物質的・意味的繋がりを失い、抽象的だが、作家によって注意深く配置された奇妙な言語的衝突(言語的事件)によってある観念を表現しようとしている。つまりほぼ純粋な『言葉の構築物』を目指しているのである。現象的に言えば、前衛小説はかつての現代詩に近接していると言える。
屋敷の管理人として挨拶を述べるが、一堂に会した人々は隣席の者らと騒がしくおしゃべるするばかりでだれひとり水垣鉄四のほうを向いていない。
とはいえそうした光景を、水垣鉄四自身は嬉しそうに細めた目で見つめている。
たくさんの声にしばし耳を傾けると、水垣鉄四は挨拶を途中で切り上げ、それではいただきましょうかと皆に声をかける。
するとテーブルのあちこちから歓声があがり、その場にいる全員が一斉に食器を手にして口を開く。
(同、最終部)
カクテルパーティは七時からの予定だったのに、四時半にはすでに広間は半分くらい人で埋まっていた。そして皆、一人のこらず退屈していた。淑女たちの化粧や着付け、紳士たちのズボンの折り目がようやくくたびれた頃、一人の召使いが現れて、人びとのおしゃべりはひたと止った。召使いは威厳をつくって広間を横切っていく。人びとは黙ったまま、彼の通路のために左右に分れるのだったが、彼は広間の一番奥まで進むと、その壁に開いた小さな戸口から出ていってしまった。
(入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』[1962年]最終部)
1960年代の初頭に詩人・入沢康夫は〝擬物語〟という方法論を唱えた。入沢は形式的にも思想的にも何の制約もない自由詩の世界で、文字通り『コンセプチュアルな企みやアイディアでもって言葉の構築物をつくっていく』試みを行った。文学全般を言語による抽象的構造体であると捉え、小説の中核を為す物語も作品の一要素に過ぎないと考えたのである。この考えに立てば、表面的には従来の物語をなぞっているが、本質的には現実世界との対応関係を持たない言語の組み合わせが起こす事件(=擬物語)の方が、結局は言語で構築される虚構に過ぎない物語の本質に肉薄しているということになる。『ランゲルハンス氏の島』は入沢の擬物語詩の代表作である。
誤解のないように言っておくと、阿部氏と入沢氏の引用を並べたのは、阿部氏が入沢作品から影響を受けていることを示したかったからではない。阿部氏は恐らく入沢からなんの影響も受けていないだろう。ただ両者には共通点がある。入沢の『ランゲルハンス氏の島』の主人公は島にやって来た青年だが、最終部はカクテルパーティで衆人環視のもと、部屋を横切って戸口から出て行く召使いの記述で終わっている。『ランゲルハンス氏』で叙述された物語に意味はなく、それは〝物語とは入って出ていくことだ〟という作家の思想が示されている。阿部氏の小説も同様である。『□(しかく) 冬』の最終部はこの小説の主題が〝食べること〟であることを示している。食べ、食べられることの無限の循環性を表現するのが目的であり、水垣鉄四を始めとする登場人物はそのための一要素に過ぎない。
また両者の違いを簡単にまとめれば、入沢には当時は小説の特権的属性であると考えられていた物語を解体したいという欲望がある。その意味で小説は詩の仮想敵だった。しかし阿部氏にそのような指向はない。阿部氏の小説は、世界には表現の核を形作るような本質など存在せず、それは記号の無限循環的な構築物であり、物語は記号の結節・衝突点に現れる仮象のポイントに過ぎないという、ポスト・モダニズム理論を忠実に小説化したものである。その意味で阿部氏の小説はいかようにも読み解くことができる。かつて入沢の作品に寄せられたように、阿部氏の作品を巡って何本もの評論を書くことができるだろう。ただそれは小説が、現代詩のように限定された読者に向けられた抽象的言語実験になることを意味する。今は物珍しいかも知れないが、この方向に進めば、小説はやがて現代詩と同じようにほんの少数の読者のための文学になるだろう。
良い悪いの問題ではなく、小説の前衛的な試みは阿部氏らに代表されるように、高度に抽象的な言語実験に向かっている。また世界に表現のための本質的な核など絶対に存在しないと肉体レベルで〝確信〟できる作家が、21世紀の優れた作家になり得る可能性もある。一方で文学界は西村賢太氏に代表されるような、古典的な意味でのいわゆる〝後衛小説〟である私小説に支えられてもいる。問題は前衛と後衛の間に優れた小説が存在しないことにあるのかもしれない。純文学において、前衛にも後衛にも分類できないという意味での中間小説が、ことごとく魅力を失い色あせて見えるのも確かなのである。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■