どうしよ。なにごとにつけ優柔不断でスローなワタシは弱ってしまいました。
なにしろですよ、文芸五誌といわれる中で「新潮」と「すばる」は一一月号、「文藝」は冬季号、三誌の新人賞がそれぞれ掲載されたばかりなんですから。どれから手をつけたものやら。どの作品も激戦を勝ち残ってきた力作ばかり、これだけしか読まなくても胃袋の小さいワタシはお腹いっぱいです。小説って、その世界にひとたび入ってしまえば読み終えるのはあっという間ですけど、入るまでがたいへん。たいていは、一行目から頭を抱えてウーンとうなってしまうんです。これっていったいどこの言葉で書かれているんだろう、あれとこれはどうつながるんだろうって。音楽でも映画でも文法がわからないとそういうことがありますが、言葉だとなおさらです。まあウンウン言わされるほど、読み終えてみたらいい作品が多いんですけどね。
「新潮」と「文藝」はともに受賞作が二作。「すばる」も佳作を入れて二作。優劣を決めがたいほど小説にとって実りの多い年だったのかな、そうだったらいいなと願いながら読みました。その六作品の中から今回は「文藝賞」受賞作、待川匙さんの「光のそこで白くねむる」を取りあげましょう。(以下ネタバレ注意)
電車の車内の描写から物語ははじまります。「わたし」は墓参りの旅の途中です。十年前に亡くなったとされる「あなた」の墓所を訪おうと故郷へ向かう旅です。ちょうどその十年前に上京した「わたし」は、土産物店でアルバイトをしながらなんでもないルーティンを守ることで生きてきた。ところが店主からある日突然「無期限休業」を告げられます。それをきっかけに「あなた」のことを思い出した「わたし」は旅に出る。その途次、故郷にいたころのこと、祖母や両親や学校生活、そして「あなた」のことをふり返ります。ひとことで言えば回想の物語です。
なにかただならぬことが起きているようにも、なにごとも起きてなどいないようにも思えます。どこまでが現実の世界でどこまでが「わたし」の妄想なのか。どこまでがほんとうのことなのか。暴力の記憶。どちらが加害者でどちらが被害者なのか。読み進むにつれあらゆる「境界」があやふやになり、わからなくなっていきます。そもそも語り手の「わたし」自身からして、それを決定できないのです。「わたし」の性別すらわかりません。故郷がどこにあるのかも、出自も不明……これは「境界」のゆらぎと喪失の物語です。「わたし」が幼年期をすごしたという当の故郷、その地形もまた「境界」の表徴になっていることを忘れずに挙げておきましょう。
いいえ。それどころか、そのように喪われる過去など、故郷など、ほんとうにあったのだろうか。しまいには語っている「わたし」自身でさえも。「境界」喪失のおそろしさはここにあります。
それを支える叙述は、はじめのうち通常の一人称形式(「わたし」)で語られていきます。けれど「境界」の喪失を表現するにはムリがあります。一人称ではなにを語ろうとも語り手の視点がすべてですが、その代わり「境界」を「境界」として相対化する視点をみちびくことも困難だからです。これが三人称ですと、誰の視点であってものっけから語り手の視界のなかで相対化されざるをえませんから、「境界」のゆらぎを生々しく説得的に表現するにはこれまた不向きです。一人称も三人称も、その意味ではともに「神の視点」で一かゼロなんです。
そのために、作者は「キイちゃん」と呼ばれる「あなた」からみた「わたし(=おまえ)」という二人称の視点をみちびき入れることで解決し、これが後半部の叙述の柱となっています。これから墓参に赴く過去の死者との対話のようですが、語り手自身が内部で分裂し会話するのです。すべての会話に「」がなく、文章のなかにシームレスに埋め込まれていることも効果を生んでいます。なによりも作者の筆力がすばらしい。作者自身、どのようにして終わるかおそらくわからない(と思わせる)うちに一五〇枚の待川ワールドのなかに読者を引きずりこんでいく。そこには紋切り型の表現は一か所を除いてひとつもありません。ちなみにそれは次の箇所です。
わたしたちはたんに物語を伝達するちいさな節点のひとつひとつとして、関係性の網を伸び縮みさせていたにすぎなかった。
(待川匙「光のそこで白くねむる」)
あらさがしをするのがワタシの意図ではないので、今度は作者の筆力をよく示す息の長いパッセージを抜きましょう。
自分に口が、言葉があると思っているのは自分だけなのかもしれない。喉や舌や唇が湿り気のある繊細な運動をうねうねと行って、それさえも嘘で、思い込みで、口をおおきくひらいたつもりでいるけれど、もし鏡の前にいま立てば、口腔や声帯の存在しない、人間ですらない自分の顔面があらわれて、つるんとしたなんの凸凹もないその表皮が、声を出したと思っているときだけわずかに波打つように動いているにすぎないのかもしれない、と、そのようにおまえは思った。
同
「おまえ」とは「キイちゃん」からみた「わたし」のことですが、そのように語る「わたし」自身でもあります。こうした二人称の特性である二重性を生かしながら、文体だけでずるずると引き入れていくような磁気が待川さんの魅力だと思います。
キイちゃん。わたしは思った。キイちゃんはほんとうに子供のまま死んでしまったんだね。大人にならないまま、大人とはどういうものか、つまり、むかしわたしも同じような想像をしていたとおりに、子供という殻が破られて、すべてがすっかり変質し、ほとんどべつのものになることで大人になるのではなくて、子供時代というのは、琥珀のなかに閉じ込められた昆虫のように、ずっとそのままのかたちでそこにあって、その外側をべつのものが包んでいるだけなんだと、キイちゃん、あなたはそういうことを知らないうちに、本当に死んでしまったんだね。
同
この箇所に至ったとき、世の中にはワタシと同じことを考えているひとが、つまり変なヤツ(笑)がいるのだという一種ふしぎな感動におそわれました。「琥珀のなかに閉じ込められた」ままでいる「子供時代」は、「キイちゃん」という亡霊となって語り手(「わたし」)の思考に、内面に介入してくるのです。この亡霊については、僭越ですが「文学金魚」連載中の拙論「人生の梯子」の第六回(予定)をご覧いただければ幸甚です。
さて、ワタシは欲張りですから、これほど才能のある作家ならここで描かれた世界のさらに先へと突き抜けてほしい、そんな願いを抱かずにおれません。先とはなにか。あらゆる関係妄想や現実世界のゆがみが行き着くその先です。それは何でもオッケーの世界です。まったき無と表裏一体の世界です。そのためにはしかし、現実世界からの逆襲がなくてはなりません。それは語り手と二人称の「あなた」のあわいに成り立つあやうい思考世界をぶち壊しにして未知の岸辺に漂流させる外からの力です。ほかでもない、それはこの小説のなかで蠢き、幾度も顔を出しているもの、すなわち暴力の蠢きです。一例を挙げましょう。小説のすべり出しでアルバイト先の主人が起こした事件、それはほんとうにその人物が起こしたのか。そう思わせてしまったら、この挿話は後半に効いてこないのです。そのため「わたし」に内在する暴力の可能性は、作品のこの位相のままでは、「わたし」と「あなた」との、あるいは「あなた」と行方のしれない家族との終わりなき関係妄想の世界に可能性として封印されざるをえない。
それでいいんだ、あえて境界のうえに、あわいにとどめたからこそ息づく世界があるんだ、と作者は返すかもしれません。しかし作家の本意はそこにはないはずです。もっと魂の凍りつく世界へと踏み入る可能性をこの作家は秘めている。それはとどのつまり、やくたいもない日常にすぎないかもしれない(なにせ日常ほどおそろしいものはありませんからね)。なんであれそれを示せれば、小説というジャンルはほんとうに寝た子を起こす力があることを証しできるでしょう。
萩野篤人
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