絶滅危惧種と長らく言われながら、しぶとく生き残っているものが、世の中にはけっこうあります。小説もその一つです。文芸誌はかつての勢いはないにしても、主要誌は存続していますし、新人賞に応募する人の数はマンガほどではないにしても、一五〇〇から二五〇〇と言われるほど狭き門だそうです。芥川賞や直木賞なんていうと、新聞やTⅤで大きく取り上げられ、うまくすれば芥川賞作家という肩書だけで一生食べていける。なにが人をいまも小説に向かわせているのか。昔からくり返されてきたのだけどいつまでもモヤっとしたままでいるこの問いに、いま答えを見出すとしたらどこに手がかりがあるでしょうか。原点に帰ってと言ったら大げさですが、心に引っかかった作品を直近の文芸誌という現場から探ってみることにしました。
手始めに文芸五誌といわれる紙誌の中から、一話読み切りの作品にひと通り目を通してみました。月刊「すばる」。この文芸誌は充実していますね。たまたまなのかわかりませんけど、外れがありませんでした。中でも中西智佐乃さんの「長くなった夜を、」。これはもう力作です。二百枚弱でしょうか。中編小説といえるこの作品、いったん読み始めたら途中でコーヒーでもとひと息つくことができないのが欠点です。面白くてやめられないのではなく、行間にただよう息づまるような緊迫感の中からわたしを離れないで、いまに起こるわという声が聴こえてくるからです。何が起こるというんでしょう。それはわかりません。起きないかもしれません。けれどカタストロフィーの予感がぷーんとただよってくるんです。(以下ネタバレを含む)
主人公の関本環はもと幼稚園の教諭でしたが、職場に溶け込めず心身を病んで休職し、いまはコールセンターの派遣社員として日々クレーム対応をしています。環の両親はともに高校の教師ですが、幼いころからパワハラの父親に言われるがままに、いやそういう家庭にありがちですが、しがみつくように生きてきた。三十八歳になっても夜九時の門限を守るような女性です。彼女と対照的に息苦しい家の空気に反発し、自由奔放に生きているのが八歳下の妹、由梨。別れた男との間に公彦という子がいます。実家を追われるように出てパートとバイトをかけ持ちしながら男を次々ととっかえひっかえする妹に代わって、公彦の世話や保育園の送り迎えをしているうち、環はこの子を自分の子のように思いはじめます。それから同じコールセンターに勤め、公彦と同じ保育園に娘を預けている古賀さん。主要な登場人物はこれだけ。作者の設えた箱庭世界です。そこに描かれるのはいつ果てるともしれない主人公の日常です。特筆したいのはその閉ざされた日常という地獄の描きかたです。それを支える細部のリアリティがいい。自らひたすら食らっては執拗なまでに嘔吐をくり返す行為の迫真の描写はもちろんですが、
「あなたは、自身の子宮が劣化しているしるしのように思えてならなかった。母の頑張るの顔が浮かび、あなたは胸のすわりが悪くなる心地がした」
「ここのスーパーのジャガイモは買った時から芽が出ているものがある」
「子どもは泣くと熱い」
「舌打ちをしそうになるのを、下唇を噛むことにすり替える」
などなど、小説ならではの表現が随所に丹念に描き込まれます。
のっけから気になったことがあります。なぜ二人称なのだろうか、という疑問です。主人公のことを「あなた」と呼んでいる人物は誰か。ひょっとして語り手が話中人物だったみたいなクラインの壺的オチでもあるのかなと、最初はマジでそう思いました。そうではありませんでした。「あなた」は言うまでもなく語り手で、作者自身です。主人公に呼びかけているようでそうではない。そこは一線を引いている。ほんとは三人称で語ってもよかったはずです。一人称、つまり私小説は前提から除けられています。何せ作者という「神」でなくては語れないことまでしっかり描き込まれていますからね。大団円まできてようやく「あなた」は主人公に寄りそうために設えた作者の語り口だったことが、察してはいましたが判明します。さて話法は成功したのでしょうか。それとも作品の綻びなのか。小説作品とは、さっきも言ったように作者の箱庭ですから、登場人物がいくら叫ぼうと暴れようとその柵の中の出来事でしかありません。これはマンガやアニメでもみな同じです。登場人物が作者=語り手を裏切って暴走することもまれにあります。作品は破綻の危機に瀕しますが、それを平然と呑み込んでしまう天才がこの世にはいます。めったにお目にかかれませんけれど。では逆に作者=語り手自身が暴走し、せっかく育てた箱庭に足を踏み入れめちゃめちゃにするようなことはあるでしょうか。いいえ。小説でもマンガでもそれは禁じ手です。ところが作者である中西さんは、禁じ手を犯しても庭へ踏み入ろうとするのです。
環は毎夜、由梨と公彦のいるマンションを訪れ二人の様子を観察するようになります。由梨は公彦を置いて外で男と密会しています。幾度かそれが続いたある夜明け、環は部屋に一人置き去りにされた公彦を連れ出し無理やり実家へ連れて帰ります。なぜって「公彦に墓を守ってもらわなあかんって、お父さんとお母さんが言うてた」からです。返して来いと叱る父親。そのとき、
「しっかりせぇやっ!」
怒声が響いた。あなたのものだった。
「お前らが望んだことやろうが!」
あなたは父の手を振り払い、肩を小突いた。父がよろけ、後ろの壁にもたれかかるようにして背を当てる。あなたは父から目を逸らさない。壁に当たった時に俯いた顔が上がる。あなたの目が見開かれる。誰だ、とあなたは思う。
中西智佐乃「長くなった夜を、」
暴発してはじけ散った環は、公彦を保育園に預けに行ったところで嘔吐して倒れ、救急車で運ばれます。ベッドの上で、彼女はゼロ地点にいます。それ以上得るものも失うものもない、存在の絶対零度の地点にいるのです。「私には何もない」と涙声で語る主人公に、古賀さんは「それがわかっただけでも、良かったんじゃない」と応じます。
古賀さんの背中を擦る力が強くなる。熱が宿る。あなたは、自身の体温を感じる。熱い。あなたはここにいる。
あなたは、いるのだった。
同
「あなたは、いるのだった」という、改行後のこの一行はきっと作者が一番言いたかったひと言でしょう。ただこのひと言は、すでに作品の発する声ではありません。主人公に寄りそうあまり、作者が楽屋から一歩踏み出さずにおれなくて発した声なのです。「あなたは」という二人称の語りがそれを誘ったのか、それとも踏み出そうとして作者が採用した話法なのか。言えることは、これがもし作品の発する声であったなら、作品が自ら踏み出していたのだったら、この作品はかけ値なしの名作となっただろうということです。「長くなった夜を、あなたは家の外で越えた」小説の幕を閉じるこの一行は、作者と作品の稜線上にある声です。でもさっきのひと言は稜線から作者のほうへ滑っている。
小説の面白さも難しさも、ここにあります。
萩野篤人
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