ある日、私は旧知の大学院生に、国立図書館の、近代作家の自筆草稿が所蔵されている部署に連れて行ってもらった。
開館から、三十分と過ぎていないのに、閲覧室は日本人で一杯だった。
四十人近い日本人留学生たち全員が、プルーストの草稿やゲラを抱えて、一字一句チェックしていたのである。
[中略]日本人留学生がこぞって「草稿」の回りに集まっているのは、旺盛な研究欲のためばかりではなかった。日本人がフランス文学研究にもとめ、手に入れようとするものが得られる唯一の物が、この草稿の中にあると言うのだ。
いくら、文学的に卓抜な解釈や考証をおこなっても、フランス人にとって「お客様」でしかない日本人の業績を、本心から認めさせるのは難しい。[中略]
この草稿の中にだけ、日本人がフランスにおいてフランス文学者として認められるチャンスがあり、戦後の、いや近代日本のフランス文学研究が正しいものであったことを証明する機会が存在していた。
だが四十人近い日本人たちが肩を並べて一心に、薄汚れた手書き原稿を点検している光景は、私を絶望的な気分にした。
それはこうした光景が、文学を読むという場所、一生正業に付くことなく、病臥して小説の執筆をはじめるまでは遊蕩以外には何一つなさなかったプルーストという作家を読むべき場所から、余りに遠いように思われたからだけではない。
[中略]
このような競争の現場では、文学研究がそのまま自己目的化してしまっている。ここでは、私たちがなぜ文芸と拘るのか、私たちが文芸を読むということは何を意味するのか、文芸とは何なのかといった、常に問い返されるべき問いがすべて忘れさられている。
福田和也『「内なる近代」の超克』「第二章 日本人の学問」、PHP研究所
昨年亡くなった文芸批評家・福田和也さんは、自身のこのリアルな体験からアカデミズムの世界で生きることと訣別し、プルーストにじぶんを重ねるかのようにモノ書きの道を歩むことになります。
先の芥川賞を受賞した鈴木結生さんの「ゲーテはすべてを言った」を読み終わって、真っ先に頭に浮かんだのは、福田さんのこの一文でした。
衒学的といわれる文学を、どうとらえるかは所説あろうかと思いますが、近代以前でもヨーロッパならフランソワ・ラブレーが、日本なら曲亭馬琴あたりがすぐ思い浮かぶように、早くから一ジャンルを形成している文学ならではの形態と言っていいでしょう。夢野久作・小栗虫太郎・中井英夫の〝御三家〟は言うにおよばず、ミステリー系の小説に多いのは偶然ではなく、マニアックな読者の心をくすぐるような蘊蓄がストーリーに組み込みやすい小説構造にあると思います。多種多様なメタ・フィクションがこころみられる純文学小説系ではなおさらでしょう。大事なことは、それによって作者がどんな読者を対象に、何を狙った作品を供しようとしているのかにあります。これがはっきりしないと作品の成否にかかわりますから。なぜなら衒学はその性格上、ことさら読者を選ばないわけにはいかないためです。逆に言うなら、それは読者に選ばれるということでもあります。
万人につうじる知識の陳列は誰にもできない。百科全書の時代はとうに過ぎた。誰も「すべてを言」うことなどできない。とすれば作者にとっての工夫のしどころは、どのような知の領域にフォーカスして、どこまで石を投じるか、そのコンセプトと選択のセンスにあるでしょう。
この意味で「ゲーテはすべてを言った」という興味深いタイトルを付した作者のセンスは、悪くありません。まず、博把統一という凝った名の独文学者、かつゲーテ研究の第一人者を主人公に据えて、それを紙屋綴喜というこれまた凝った名の娘婿が語るという物語設定。ゲーテという目のつけどころがいい。カフカやベンヤミンを別にすれば、独文学の最新の研究成果につうじていて、付け焼刃の蘊蓄に突っ込みを入れられるような知識人なんて今の日本にはざらにはいません。一方、ゲーテなら誰もがその名を知っていますし、文学好きだったら「ファウスト」とか「若きウェルテルの悩み」くらい頁をめくっているでしょう。名言・箴言やエピソードも広く流通しているし、何よりゲーテ自身、ペダントリーを含めて18世紀の知の集積と言っていいほどの存在だった。つまり、やりやすい対象だということです。
さらにこの作品は、そのゲーテの「名言」をモチーフにした謎解きの物語という、エンターテインメントとしての筋が一本通ってはいる。「Die Liebe verwirrt nicht alles, sondern vermischt es」というゲーテのものらしき「名言」を、主人公の統一は「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」と訳したものの、その出典がわからないかれは答えを求めて探究の旅に出る。そこに学者一家とアカデミズムの周辺に生きる人たちの生態やら醜聞やら意外な絆やらを重ね合わせて、読者を退屈させないような工夫も忘れていません。
個人的な感想ですけど、この作者の映画の趣味はなかなかのものですね。ゴダールの「映画史」、ハワード・ホークスの「教授と美女」、チャン・イーモウの「初恋の来た道」、ストコフスキーの名声を高めた「ファンタジア」。フランク・キャプラの名作「素晴らしき哉、人生!」はワタシも毎年クリスマス・イブに観ております。そして何と、ジュディ・ガーランドの名前を挙げるとは! おなじ「文学金魚」に時評をお書きになっている佐藤知恵子さんを真似て「ワテクシ、このお方タイプですことよ!」と言いたくなります(笑)。
それに比べて音楽はセンスゼロです。この物語設定だったらクラシックを、クラシックだったらとりあえずグールドだの平均律の何番が流れてだの、と書いときゃ知的でカッコよく見える、みたいに作者が安易に考えていないことを願っています。他の作家さんも他人ごとじゃありませんよ、恥ずかしいだけですからね。
で肝心の文学ですが、衒学的である以上、細部にこだわるのはとうぜんですけど、その割には、
そういえば、義父は大江氏と同期で、キャンパスで見かけたこともあったそうだ。義父自身、渡辺一夫が訳したトーマス・マンの本を読んでいたので、大江氏(引用者注・大江健三郎のこと)と渡辺先生の蜜月ぶりが羨ましくもあった。
鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」
マンの四つのテキストをアンドレ・ジイドが自身の序文を付して仏訳し、戦時中それを大切に持っていた渡辺一夫が空襲の合間に訳し、ジイドの文章を加えた「五つの証言」として世に出したのがその本(中公文庫)です。辰野隆と渡辺一夫という東大仏文の碩学の師弟関係くらい知っているでしょうに、その渡辺があたかもドイツ語から直訳したかのように誤解させる作者のこのような書き方は、この本をちゃんと読み、当時の渡辺の心情を理解していたらありえません。大江健三郎が読んだら怒りますよ。
さらに言うと、博把統一とおなじ研究者で友人でもある然紀典が「名言」のタイプを分類して「要約型・伝承型・仮託型」と主張していますが、分類自体はどうでもいいとして、デカルトの名言「我思う故に我あり」がニコラウス・クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」を反転させただけ、という話は、哲学の議論としてはまったくナンセンスです。後者はたんなる信仰表白にすぎません。デカルトとクザーヌスを合体して哲学的に反転させた型は「神あらば我の在るがごとくなり」でしょう。これは「もし神があるとしたら、我が在るという、まさにそのようにしかありえない」という意味です。もしこれを「名言」と思える人がいたら、そのひとは哲学のセンスがある人です。
とにかくこの小説は内容空疎ですね。そうでなさそうなところをすこしでも拾うと、
いずれ、全世界のすべてのテクストが電子データ化されたら、そんなこと(引用者注:探していることばの出典がみつからないこと)もなくなってしまうのだろうか? Google Books的アレキサンドリア図書館のことを統一は想像する。だが、そんなすべてを網羅し共有された(かのように見える)空間が出来上がったところで、人々がやることは結局、自分なりの全集を編むことでしかないのだろう、
(同)
大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」から、
すべては宙ぶらりんで、そのむこうに無が露出している。「樹木の魂」「鯨の魂」にむけて、かれは最後の挨拶をおくる、すべてよし!
という一節を引用すると、それに続けて主人公は、
「すべてよし!」。これはカミュの引用だったか? あるいはライプニッツだったかもしれない。「渾て然り」。これはゲーテの言葉(仮)を俺が訳したのを然が直した言葉。そういえば先生も似たようなことを言っていた、と思いを巡らせながら、ふと娘の方を見て、驚いた。
何と、その朗読を聴きながら、徳歌は涙を流しているのだった。
(同)
次のような箇所は、あるいは作者自身の言語観をあらわしているかもしれません。
統一は、自分の言葉を決して信じ切れていない男の語る言葉を聞きながら、その言葉を信じてやることができた。何故なら、その言葉は本当だったからだ。よしんば、善い言葉とはすべて演技だとしても、だからといって、そこに意味がないということではない。それは何度も訓練し、口に慣らしていく中で自然さを獲得し、やがてその意味が開示されるだろう。そう信じるとすれば、言葉はどれも未来へ投げかけられた祈りである。
(同)
なーるほど、と思わせるこのような断片もありはしますが、物語の終盤、「眠られぬ夜のために」というテレビの教養番組の収録で主人公の統一がタレントたちと「ファウスト」について議論する場面、これはいけません。議論が描かれるかと思ったら、そうではない。主人公の主張はあっても対話がない。それを言い出したら、他の対話の場面もほとんどそうで、うわっ面だけです。あえてそう書いてるんだよ、と言われるかもしれませんが、リアルにアカデミックな議論を描く能力がないなら、リアルにアカデミックな議論だと読者に思わせるような「なんちゃって議論」だって描けません。それじゃあダメだと言ってるんです。日本のアカデミズムの世界を描いていながら、それを風刺しているわけでもない。わかってないからできないんです。物語の設定からしたら、ほんとうはこの小説全体が何かのパロディであるような寓意を示してほしいところなのに、それもない。作者はいったい何を書きたくて、何を読者に伝えたいのでしょうか。
鈴木さんという人は映画だけでなく、きっと心から文学が好きなんでしょうね。心から好きだというのがにじみ出ている。そこには好感が持てます。内容がうわっ面なのに最後まで読み通せる唯一の理由がこれです。文学を心から好きな人が、書くことのよろこびを自ら味わいながら、メタテクストのような作品を目指したのかな、と好意的にとればそうも読めます。
けれどこの手の作品に、ことばの遊戯よりも高い水準を求めるなら、テクスト自体がおのずから批評性をまとっていなくてはなりません。すぐれた詩人が自らの内に批評家を住まわせているように、小説家もまた自らに問い続けなくてはならないのです。「私たちがなぜ文芸と拘るのか、私たちが文芸を読むということは何を意味するのか、文芸とは何なのか」と。
作者が選考委員のセンセイ方の心にもない賛辞にスポイルされることなく、今後も同様の路線で生きていくつもりなら、この課題は避けられないはずです。
萩野篤人
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