8月号には奥泉光氏と堀江敏幸氏の『芥川賞新選考委員特別対談 物語ではなく、小説を』が掲載されている。編集部が対談の冒頭に置いた文章には、『いずれも大学の教壇にたち、世界文学に造形の深い芥川賞新選考委員が、堀江氏の新刊『燃焼のための習作』を糸口として、人称、文体、翻訳と日本語表現――創作の秘密について縦横無尽に語った三時間』とある。日本を代表するお二人の純文学作家が、小説をどのようにとらえておられるのか、ちょっと概観してみたい。
奥泉 新刊『燃焼のための習作』、とても面白く読みました。あたり前のことを言うようですが、物語というのは小説ではないわけで、物語を軸にしながら、それを巡ってコンセプチュアルな企みやアイディアでもって言葉の構築物をつくっていくのが、要するに小説なわけです。
対談の口火を切る奥泉氏の発言だが、小説は物語を表現するのが目的ではなく、『物語を軸にしながら、それを巡ってコンセプチュアルな企みやアイディアでもって言葉の構築物をつくっていく』芸術であるという認識が示されている。もちろん奥泉氏は小説全般のことを言っているわけではない。
図式的に言えば、物語を表現・伝達するのを主な目的とするのがいわゆる大衆文学である。これに対し、純文学では物語は小説構成要素の一つに過ぎない。作家の抽象的なコンセプト(観念)を作品全体(言葉の構築物)で表現するのが純文学である。奥泉氏が『あたり前のことを言うようですが』とおっしゃっているように、この認識は堀江氏はもちろん、『文學界』編集部にも当然のこととして共有認識されている。
この認識を突き詰めていけば、必ず物語の解体・排除に至りつくはずである。私小説は別として、物語性が希薄な実験的(前衛的)作品がいわゆる〝純文学〟として評価・流通している理由がここにある。しかしそうなると作品の評価は非常に難しくなる。自由詩の評価に近くなってしまうからである。
自由詩には一切の観念的・形式的制約がない。作品で表現される作家の観念(コンセプト)やいわゆる文体は詩人ごとに違う。作品をどう評価するかという基準に一般的法則はなく、詩人ごとに(作品ごとに)、なにを評価すべきかを考えなければならない。また自由詩では物語性の導入は詩人個々の任意的選択である。つまり詩作品とは、詩人のコンセプトやアイディアによって作り上げられた、ほぼ純粋な『言葉の構築物』である。
簡略化して言えば、小説は一時期よりも自由詩の表現に近づいている。シンデレラ・ガール、ボーイのように彗星のように現れる作家は稀になり、何度も候補になって作品を多角的に検討しなければ芥川賞が授与されないという現状もそれを表しているだろう。またこの状況は小説芸術に新たなアポリアを課している。言うまでもなく小説と詩は原理的に異なる表現芸術である。小説が自由詩に近づいたとしても同化することはない。近似値を描けば描くほど、小説とは何かという固有のアイデンティティが求められるのである。
奥泉 もちろん、小説によりますけど、方法というものは熱をもつと思うんですよ。物語と、小説ならではの方法とが、せめぎあい絡まりあい進んで行くというイメージかな。(中略)もちろん自然に書くことはできる。自然にというか、スタイルを選ばずにパッと書いても、何か文章は書けますよね。でも基本的には、探しだすというほどおおげさじゃないけど、外にあるスタイルで書くということを意識しますね。
堀江 なににつけ、計算ができないんです。連載でも先々のことはまったく考えずに始めるので、登場人物の名前も覚えていない。出てくる街の名前も職業も、書くたびにちがってしまう。要するに、手元のボールしか見てないんですよ。バットには確実に当てる。でも、あそこに飛ばそうと狙っているわけではない。
奥泉氏は『方法』や『スタイル』という言葉で、小説のアイデンティティを示唆しておられる。方法(スタイル)は基本的には熟練の技術を指す。素人には偶然にしか達成できない表現のレベルを、コンスタントに生み出すための技術が方法である。いわば偶然を必然に変えるのが方法なのである。従来は、この方法を徐々に積み重ねていくことでさらなる表現領域を開拓するのが、作家の基本的姿勢だと考えられてきた。戦後連綿と『小説入門』や『詩学入門』が書かれてきたのは、そこに通有性を持つ方法があったからである。
しかし奥泉氏が語る方法は質が違うようだ。氏は『外にあるスタイルで書く』とおっしゃっている。つまり、作品ごとに(あるいはある一定期間ごとに)自己の外にある方法論を新たに見つけ出し、それに沿って作品を書くということである。従って確固たる技術論としての方法は存在しないことになる。
堀江氏はさらにラディカルである。氏は『なににつけ、計算ができない』とおっしゃっている。『手元のボールしか見てない』、でも『バットには確実に当てる』という言葉は、書く瞬間にしか小説は存在しないという氏の認識を示している。つまり奥泉氏がその都度見出すという意味であれ、方法を重視するのに対して、堀江氏の方法は書いた後から獲得されるものであり、かつそれは自己の他の作品にとっても、他者にとっても、なんら通有性を持たないということである。
言うまでもなく両氏の小説に対する考察が正しいかどうかは別の問題である。ただ芥川賞選考委員お二人の対談には、読者に純文学とは何かを伝え、また作家の卵たちに、その大枠的な概念を説き明かす目的があるだろう。現状の純文学の評価基準は、物語よりも作家独自の言葉の流動性(奥泉・堀江氏の用語で言えばパフォーマティヴなエクリチュール)にウエイトが置かれているということである。純文学作家を目指す皆さんは参考にされるといいと思う。
ただ奥泉・堀江氏の考える小説概念は、基本的にポスト・モダニズム思想の概念に沿ったものであり、さほど目新しいものではないということも付け加えておいた方がいいと思う。言葉を記号が織りなす無限の関係性総体として捉える考えに立てば、全ての創作は作家によってその都度新たに組み上げられる言語構築物だということになる。言語構築要素(意味、音韻、物語など)は任意のものであり、リゾーム状にそれは無限収縮し続ける。
それを作品として評価しなければならないとすれば、その評価基準は各リゾームの運動形態(収縮の速度、リゾームが生じる場所的偏差)に新たな〝価値〟を与えるということになる。この価値もまた任意である。つまり作品の評価基準、そのジャンル的アイデンティティは存在しない。それが本当に〝ない〟と肉体的確信を持てる作家が、最もポスト・モダン的な作家となるだろうと思う。
一方で『文學界』が私小説作家を重視するように、このポスト・モダン的作品に対する揺り戻しは確実に生じる。自由詩、俳句、短歌、小説といったジャンルが消え去らないのなら、そこには固有のアイデンティティがあると直観されるからである。このアイデンティティもまた、肉体的イデアとして確信できなければ、優れた作家は生まれて来ないだろう。もちろん、奥泉・堀江両氏は、そんなことはすべてわかった上で、独自の小説世界を作品で作り上げ、発表されているのである。
大篠夏彦
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